「白洲正子の本領_秋草の壺」
白洲信哉 [編]『白洲正子 祈りの道』(とんぼの本)新潮社
桃山から江戸期へかけて、武蔵野の月と尾花は、一般民衆の間に浸透して行ったが、新古今集の歌にはじめてとり上げられた頃でも、既に一部の絵師や工芸家たちは、彼らの武蔵野のイメージを造りあげていたのではなかったか。たとえば国宝の「秋草の壺」がそれである。昭和十七年四月、川崎の日吉のあたりで、慶應義塾が工事をしていた時、偶然発見されたと聞いているが、その雄渾(ゆうこん)な姿と、秋草を刻んだ鋭いタッチは、比類がない。平安末期に、常滑(とこなめ)で造られた蔵骨壷で、ただし、絵だけは都の優秀な画家が刻んだのではないかといわれている。都の画家ならば、「武蔵野」の風景は胸中にあったに違いないし、武蔵の豪族を葬(ほう)むるための祭器と知っていれば、尾花で装飾することこそふさわしいと信じたであろう。そういう祈りに似たものを私はこの「秋草の壺」に感じる。眺めていると、強く張った形が満月のように見えて来て、茫々たる武蔵野の原をくまなく照らしているように見えてならない。(草づくし 武蔵野)(24頁)