「白洲正子の本領_渡岸寺」

「湖北の旅」
白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫
 早春の湖北の空はつめたく、澄み切っていた。それでも琵琶湖の面には、もう春の気配がただよっていたが、長浜をすぎるあたりから、再び冬景色となり、雪に埋もれた田圃の中に、点々と稲架(はさ)が立っているのが目につく。その向うに伊吹山が、今日は珍しく雪の被衣(かずき)をぬいで、荒々しい素肌を中天にさらしている。南側から眺めるのとちがって、険しい表情を見せているのは、北国の烈風に堪えているのであろうか。やがて、右手の方に小谷山が見えて来て、高月から山側へ入ると、程なく渡岸寺の村である。
 土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。(265頁)

「伊吹の荒ぶる神」 
白洲正子『近江山河抄』講談社文芸文庫
 近江に十一面観音が多いことは、鈴鹿を歩いた時にも気がついたが、特に伊吹山から湖北へかけては、名作がたくさん残っている。中でも渡岸寺の十一面観音は、貞観時代のひときわ優れた檀像で、それについては多くの方々が書いていられる。こういう観音に共通しているのは、村の人々によって丁重に祀られていることで、彼らの努力によって、最近渡岸寺には収蔵庫も出来た。が、私がはじめて行った時は、ささやかなお堂の中に安置されており、索漠とした湖北の風景の中で、思いもかけず美しい観音に接した時は、ほんとうに仏にまみえるという心地がした。ことに美しいと思ったのはその後ろ姿で、流れるような衣紋のひだをなびかせつつ、わずかに腰をひねって歩み出そうとする動きには、何ともいえぬ魅力がある。十一面観音は色っぽい。そんな印象を受けたが、十一面の中でも、「暴悪大笑面」というもっとも悪魔的な顔を、後ろにつけているのは何を意味するのであろうか。(181頁)

下記、