「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_本居宣長について」

小林 私はいま「本居宣長(もとおりのりなが)」を書いていますが、あなたがおっしゃる情緒という言葉から、宣長の「もののあはれ」の説を連想するのですが。これはやはり情緒が基本だという説なんです。あの人には、ほんとうは説としてまとまったものはなくて、雑文みたいなものの集まりがあるだけなのです。それで大体こういうことが言いたかったのであろうということを、私は推量するわけです。宣長は昔の人ですから、今の人みたいに理論的に神経質じゃありません。首尾一貫したもののあはれの理論をこしらえるなんていう考えは毛頭ないのです。だから勝手なことを言っているわけです。
 理論とか体系とかは、欧米から学んだもので、以前にはなかったのです。
小林 あの頃の日本人には一つもないのです。システムなんて言葉は何だかわからないのです。ですから推量するわけですが、もちろん宣長自身としては、一貫しているのです。言いたいことがわかっているから、こうだろう、ああだろうと、こっちから推察するのです。そういうふうに見ますと、ああいう説は、あとから、例えば坪内逍遥が採りあげるような美学じゃないのですよ。文学説でもないのです。あれはあの人の人生観で哲学なんですよ。あはれを知る心とは、文学に限って言ったわけではなく、自分の全体の生き方なんです。それが誰もの生き方なんですね。そこまで確信してしまった人なのです。
(中略)
詩人ではないが、たいへん詩人的なところがありまして、どんどん一人で歩いていって、もう先きはないというところまできて、ぽっくり死んだのです。そういう意味で宣長さんの考えた情緒というものは、道徳や宗教やいろいろなことを包含した概念なんです。単に美学的な概念ではないのです。
(82-83頁)

小林 本居宣長さんという人は歴史家としてはペケですな。なんにも掘り返さないんです。掘り返しちゃいかんと言っている。「古事記」であろうと「日本書紀」であろうと事実である、「万葉集」と同じ種類の事実である。掘り返してはいかん。
(中略)
実に健康的で簡明な思想です。
(102頁)

 ここにきて、岡潔の一貫して主張する「情緒」と本居宣長の「もののあはれ」が結びついた。
 「そういう意味で宣長さんの考えた情緒というものは、道徳や宗教やいろいろなことを包含した概念なんです。単に美学的な概念ではないのです。」
という、小林秀雄の岡潔に対する心の配りようはどうだろう。