白洲正子「南方熊楠にみる浄愛」

「浄の男道」
白洲正子『両性具有の美』新潮社
 その中でただ一ヶ所、熊楠が愛していた青年と、日高川で別れる場面が何ともいえず美しく、朝霧にまぎれて東と西に消えて行く二人の姿が、「幽玄」とはこういうことをいうのかと、長く私の心に残った。今でも淡彩の絵巻物を見るように鮮明に覚えている。(132頁)

 いずれにしてもこの世界は複雑怪奇で、両性具有とひと口にいっても、ピンからキリまであり、天界の神々から地上のホモやレズビアンに至るまで網羅している。岩田準一の研究によると、日本には男色の文献が二千近くもあり、その他の稚児とか陰間(かげま)とかおかまなどの名称は七十以上を数えるという。男色は日本だけではなく、ギリシシャ・ローマは元より中近東でも印度でも中国でも昔から盛んに行われたが、或いは宗教上の制約から、もしくは常民の生活から逸脱しているところに魅力があったのだろう。だが、そうばかりともいえないのは、十三、四から二十歳(はたち)前の男の子には、誰が見ても人間ばなれのした美しさがある。それがわずか四、五年、長くて六、七年で消えてしまうところに物の哀れが感じられ、ツバメの趣味なんかまったく持合わせていない私でさえ、何か放っとけないような気持になる。シモヌ・ド・ボヴォワールは、「人は女に生まれるのではない、女に成るのだ」といったが、男は男になるまでの間に、この世のものとも思われぬ玄妙幽艶な一時期がある。これを美しいと見るのは極めて自然なことであり、別に珍しいものではないと私は思っている。(18頁)

 岩田準一あての手紙のはじめの方に、「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候」とあり、そういう話になるのかと思っていると、また古今東西の知識が邪魔になって、ギリシャやペルシャから中国に至る同性愛の種々相があげられ、どれが浄愛か不浄愛か判然としなく成る。
 かと思えば、「さる大正九年、小生ロンドンにむかしありし日の旧知土宜法竜師高野山の座主たり」と突然話は日本の昔へ飛ぶ。その座主がある時弘法大使請来の大日如来の大幅を見せられたことがあった。
 「何ともいわれぬ荘厳また美麗なものなりし。その大日如来はまず二十四、五歳までの青年の相で、顔色桃紅、これは草堂(画師の川島草堂)噺(はなし)に珊瑚末を用い彩りしものの由、千年以上のものながら大日如来が活きおるかと思うほどの艶采あり。さて例の髭鬚など少しもなく、手脚はことのほか長かりし、これは本邦の人に気が付かれぬが、宦者の人相を生写しにせしものに候。日本には宦者なきゆえ日本人には分からず候。」
 この絵から私たちが直ちに連想するのは興福寺の「阿修羅」像で、ふつうの忿怒(ふんぬ)相とはちがい、紅顔の美少年が眉をひそめて、何かにあこがれる如く遠くの方を見つめている。その蜘蛛のように細くて長い六臂の腕も、不自然ではなく、見る人にまつわりつくように色っぽい。天竺の名工問答師の作と伝えるが、そういえば光明皇后をモデルにしたという法華寺の十一面観音も、膝の下までとどくほど手が長い。熊楠さんがいわれるように宦官を模したのかも知れないが、広い意味では宦官にも男女の別はないともいえるのだから、仏像のモデルになったとしても不思議ではない。が、あれほどすべての文化を中国に学びながら、どういうわけか宦官だけは輸入しなかったことを日本は誇りにしていいと思う。たぶんあまりに不自然で、残酷な風習は、世相に合わなかったためだろう。
 中国の宮廷には一時は十万人もの宦官がいたそうで、熊楠先生なら蘊蓄をかたむけるところだが、私にはその方面の学問もなく、知識も至って浅薄であるから、引用するだけに止どめておく。興味のある方は、三田村泰助著の『宦官』(中公新書)を読んで頂きたい。そこには中国がいかに怖ろしく、とてつもない大国であることと、日本との違いが如実に示されていると思う。
 熊楠は中国だけではなく、ペルシャ、印度、ローマなどの例もひいており、同性愛の複雑さをといているが、(後略)(132-135頁)
 
以下、
「白洲正子の本領_稚児灌頂」