「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_確信したことしか書かない」

小林 (前略)それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ。知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人がまれなのです。そういうことをしている人は本当に少いのですよ。
(中略)
私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。
 なるほど。
小林 自分はこう思うということばかりを、二度言ったり、三度目だけどまた言うとか、何とかかんとか書いていらっしゃる。そういう文章を書いている人はいまいないと思ったのです。それで私は心を動かされたのです。
 ありがとうございます。どうも、確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しない間は複雑で書けない。
小林 確信しないあいだは、複雑で書けない、まさにそのとおりですね。確信したことを書くくらい単純なことはない。しかし世間は、おそらくその逆を考えるのが普通なのですよ。確信したことを言うのは、なにか気負い立たねばならない。確信しない奴(やつ)を説得しなければならない。まあそんなふうにいきり立つのが常態なんですよ。ばかばかしい。確信するとは2プラス2がイコール4であるというような当たり前のことなのだ。
(中略)
ところで新風というものが、どこかにありますかなあ。こんな退屈なことはないですね。もしみんなが、おれはこのように生きることを確信するということだけを書いてくれれば、いまの文壇は楽しくなるのではないかと思います。
 人が何と思おうと自分はこうとしか思えないというものが直観ですが、それがないのですね。
小林 ええ、おっしゃるとおりかも知れません。直観と確信とが離れ離れになっているのです。ぼくはなになにを確信する、と言う。では実物のなにが直観できているのか、という問題でしょう。その点で、私は噓(うそ)をつくかつかぬかという、全く尋常な問題に帰すると考えているのですが、余計な理窟(りくつ)ばかり並べているのですよ。そうとしか思えません。
 躾(しつ)けられて、そのとおりに行為するのと、自分がそうとしか思えないからその通り行為するのと、全く違います。
小林 さっき、あなたの数学の内容というものが、情緒であるというお話、だいたい見当がついたつもりですが、さてその内容ですね、(後略)
(110-113頁)