「白洲正子の本領_観心寺 如意観音」

「南河内の寺」
白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫
「生身(しょうじん)の仏」という言葉があるが、それはまさしく生ま身の女体の、妖しく生き生きとした姿なのだ。ことに豊満な六臂には、不思議な力がこもり、吸いこまれそうな気分になる。女の私でもほれぼれするのだから、男が見たらどんな気を起すか。古来どれ程多くの坊さん達が、ふと垣間見た媚かしい肢体に、恋慕の炎を燃やしつづけたことだろう。如意輪には、仏法の功徳により、思いのままに苦を転ずるという意味があると聞く。してみると、この官能的な仏には、女体の最高の美を示すことによって、煩悩を転機に菩提へ導くという、逆説的な意味があるかも知れない。そんな廻りくどいいい方をするまでもなく、要するに、惚れこむことが信仰の第一歩だ。そう語っているように見えなくもない。それは多くの僧を迷わせたかも知れないが、同時に多くの僧を救ったに違いない。そういう意味では、危険な仏であり、厳しい仏でもある。秘仏にしておくに如(し)くはないが、また秘仏ほど人の興味をそそるものはない。現に私も、実物を拝んでいたら、こんな不埒な想像はつつしんだかも知れないのだ。
 観心寺のお住職は、かねてから、こわい方だと聞いていた。が、私はそんな風には思わない。むしろ親切で、丁寧な方という印象を受けたが、こと信仰に関しては、頑としてゆずらぬ厳しさがある。この頑固さは尊重すべきであろう。時代錯誤とか、勿体ぶってるとか、世間の人々はいうかも知れないが、もともと真言密教は、秘密の宗教なのである。夜のとばりの中で、自力で悟る深遠な仏法だ。それに比べたら、よろずガラス張りで、解説つきで、何もかもダイジェスト的な、近頃の風潮ほど退屈なものはない。(108-109頁)

私は、
◇白洲信哉 [編]『白洲正子 祈りの道』(とんぼの本)新潮社
を、手元におき、「白洲正子の本領」を書いています。すてきな本です。もちろん「観心寺 如意観音」の写真もあります。