中川一政「もうこうなると化けているから」4/4
◇ 白洲正子「吉越立雄(たつお)能の写真」(『夢幻抄』世界文化社)
の、梅若実が舞う『東岸居士』における文章を読むにつけ、吉越立雄の写真を見るにつけ、思うのは、「もうこうなると化けているから」といった中川一政のひと言である。
そこには、彼我の別なく、彼此の別なく、自在な景色が広がるばかりである。美の拠るところである。人の立ち位置の極まるところである。
小林秀雄「鉄斎の自在」
の、梅若実が舞う『東岸居士』における文章を読むにつけ、吉越立雄の写真を見るにつけ、思うのは、「もうこうなると化けているから」といった中川一政のひと言である。
そこには、彼我の別なく、彼此の別なく、自在な景色が広がるばかりである。美の拠るところである。人の立ち位置の極まるところである。
小林秀雄「鉄斎の自在」
「鉄斎 III」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
鉄斎の筆は、絵でも字でも晩年になると非常な自在を得て来るのだが、この自在を得た筆法と、ただのでたらめとの筆とが、迂闊(うかつ)な眼には、まぎれ易いというところが、贋物(にせもの)制作者の狙いであろう。例えば、線だけをとってみても、正確な、力強い、或(あるい)は生き生きとした線というような尋常な言葉では到底間に合わない様な線になって来るので、いつか中川一政氏とその事を話していたら、もうこうなると化けているから、と氏は言っていた。まあ、そんな感じのものになって来るのである。岩とか樹木とか流木とかを現そうと動いている線が、いつの間にか化けて、何物も現さない。特定の物象とは何んの関係もない線となり、絵全体の遠近感とか量感とかを組織する上では不可欠な力学的な線となっているという風だ。これは殆(ほとん)ど本能的な筆の動きで行われている様に思われる。最晩年の紙本(しほん)に描かれた山水(さんすい)などに、無論線だけには限らないが、そういう言わば抽象的なタッチによって、名伏し難い造型感が現れているものが多い。(180-181頁)