「一枚の絵をよく見ることは難しい_明日の処暑の日に思う」

前略 Dr.T様
◇ 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社
雪舟〈山水長巻〉春景部分 1486 紙本墨画淡彩 39,8×1653 毛利博物館(64-65頁)
雪舟〈慧可断臂図〉1496 紙本墨画淡彩 183,8×112,8 斎年寺(66頁)

 昨夜は一時間あまり、雪舟の水墨画をながめて過ごした。
 〈山水長巻〉では、「開鑿(かいさく)された」平らかな「山径」、切り立った岩肌に広がった垂直面、そして渓流にかかる岩橋の美しさがまず眼をひく。濡れて光る「小径」、崩れ落ちる「岩の破片」、「小径」の斜面を転がる岩片も次第に見えてくる。
 また、〈慧可断臂図〉においては、「入門の決意を示すため、左腕を切り落として達磨に差し出す」「神光(後の慧可)」の、額に眉根に深く刻まれた皺は悲壮である。達磨は面壁の姿勢を崩すことはないが、虚ろな、戸惑いの眼をしている。達磨の纏う衣の線は柔らかく、身体は消失し、宙をたゆたっているかのようである。

 おしゃべりが過ぎた。下手な説明は鑑賞の邪魔になるだけである。小林秀雄の文章にみられるのは、観照体験である。

 ここにも曖昧(あいまい)な空気はない。文学や哲学と馴れ合い、或る雰囲気などを出そうとしている様なものはない。達磨は石屋の様に坐って考えている、慧可は石屋の弟子の様に、鑿(のみ)を持って待ってる。あとは岩(これは洞窟(どうくつ)でさえない)があるだけだ。この思想は難しい。この驚くほど素朴な天地開闢(かいびゃく)説の思想は難しい。込み入っているから難しいのではない。私達を訪れるかと思えば、忽(たちま)ち消え去る思想だからである。(55-57頁)

 ひき続き、「ぼんやりながめる読書」を続けます。
 早々
以下、
です。