「井筒俊彦という巨匠」

アラビア語とイスラームとの切っても切れぬ関係 ー 井筒俊彦『イスラーム誕生』
山村修『〈狐〉が選んだ入門書』ちくま新書(172-174頁)

右の対談で、司馬遼太郎は井筒俊彦につき、「二十人ぐらいの天才が一人になっている」と語っています。それがけっして大げさに思えないのは、ひとつには井筒俊彦のただならぬ語学力のためでしょう。なにしろ、英語だのフランス語だのドイツ語などは「平凡」だというのです。それら近代ヨーロッパ語は、どうも抵抗がない。要するに言語学的にはあまりに簡単すぎてつまらないというのです。(司馬遼太郎ならずとも、そんなことをいわれると「まいってしまいます」と苦笑したくなります)。

 それらの言語にくらべ、ヘブライ語、ギリシア語、サンスクリット語、アラビア語などは、そのむずかしさが「快い」抵抗になる。ムズカシければ、むずかしいほど、おもしろい。とりわけアラビア語は語彙がおそろしく豊富で、しかも一々のがおどろくほど流動的かつ多義的である。そこがすばらしく魅力的だ、と井筒俊彦はいうのです。


 ここで大事なのは、まさにそのアラビア語のむずかしさ(井筒流にいえば、その快さであり、魅力であるもの)でしょう。井筒俊彦が宗教についても思想や文化についてもイスラーム世界のことを語るとき、ほとんど必ず、アラビア語のことも語られます。それはイスラームの特性が、あるいはアラビア人の特性が、アラビア語そのものの特性とひとつのものであるからです。


 言語は、それをつかう人々の生活環境や、感覚や知覚などと、底の底のところでつながっている。そのことをアラビアについて、井筒俊彦はくりかえし強調しています。


下記、ご参考まで。
司馬遼太郎『十六の話』中公文庫
〈対談〉井筒俊彦 司馬遼太郎
「附録 二十世紀末の闇と光」

下記、
「井筒俊彦というさやけさのなかで」
です。