茂木健一郎 / 江村哲二『音楽を「考える」』_「江村哲二さんの超越的経験 その一」


「江村哲二さんの超越的経験 その一」

江村 今は普通です(笑)。
 作曲というのは、集中してはじめて、音楽がワーッとオーケストラの状態で鳴り出すわけです。作業としては、自分の頭の中で鳴り出すそれを、楽譜に書き落としていく感じです。もうダーッと一気に書いていきます。その最中というのは、はっきり言って時間の感覚がぶっ飛んでしまう。
 具体的な話をすると、夜の十時ごろに書き始めたときのことです。アイデアがあふれんばかりに浮かんできて、「これはいい!」と、どんどん出てくるままに書いていました。このとき、意識ははっきりしています。基本的には書いている自分の手元を見ているわけですが、それでも、「窓の外が白くなってきた。たぶん朝になったのかなあ」とか、「鳥が鳴き出したなあ」とか、わかってはいるのですが、ものすごく集中して書いていると、時間の感覚を失ってしまって、ふと顔を上げたら、目の前に置いてある時計の針が一回りして十時を差していたのです。一二時間ずっと書き続けていた。横を見ると、五線紙がドーッと積み上がっている。めくってみると、明らかに自分の筆跡なのだけれど、それを書いたという記憶がないのですよね。一種の危ない、ぶっ飛んでしまっていた状況が目の前の楽譜にある。この感覚は本当によくわかりません。脳のメカニズムとしては、ドーパミンが出て…、とかそういう状態なのですか?

茂木 一種のフロー状態ですね。非常に稀に起こる、超越的な経験です。たとえば、モーツァルトだって一瞬のうちにシンフォニーを構想したといいますが、同じ状態だったと思います。
 これは才能のあるなしに関係なく、というより才能なんて自分がそう思っているかどうかなので問題にしませんが、とにかくどんな人でもある程度経験するものなのです。
 そこで江村さんにお聞きしたいことがあるのですが、そういう状態のときには生命の危険とか感じませんか?

江村 危険?

◇茂木健一郎 / 江村哲二『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書