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TWEET「中西進の手になる大要は高級だった」

昨日の夕方、 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』角川ソフィア文庫 を読み終えた。『万葉集』への入門書としての位置づけだったが、中西進の手になる大要は高級で、覚束ず、再読を促されている。 また、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 は、『新古今和歌集』『山家集 』への足がかりとしての読書だったが、興趣が尽きず、そして、 ◇ 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫 は、およそ一年ぶりの登場である。  以上、上記三冊。「はじめから」という読書事始めです。  梅雨空が広がる季節の、私の読書覚書とでもいった、無味乾燥としたブログが続き、申し訳なく思っておりますが、ご寛恕を願うばかりである。 「読む」ことを優先させていただきます。 追伸: さらに、 ◇ 白川静『初期万葉論』中公文庫 を追加します。こちらは拾い読みしたもので、通読はしておりません。

TWEET「韋駄天お正の本領,中西進の実力」

2021/06/22 から、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』角川ソフィア文庫 を併読しはじめ、今日の午前中には、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 を読み終えた。ちなみに、 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』 角川ソフィア文庫 は、95頁まで読み、伏せてある 。 西行は仏道に生き、  ねがはくは花の下にて春死なむ  そのきさらぎの望月の頃 此歌が辞世の句である、とばかり私も思っていた。それについて、白洲正子は、 「若い時に詠んだと思われる」(227頁)「『ねがはくは』の歌が西行の辞世の句となって今に伝わったが、地下の西行は苦笑しているのではあるまいか。」(292頁) と書いている。  二書に触れ、和歌は地理・歴史をわきまえなければ面白みに欠ける、それにまして 歴史に彩られた歌は、社会を異にすれば、いまある姿を留めなかった、ということに思いをいたした。 中西進の実力を知った。 西行は目映(まば)ゆかった。 早速、 ◇ 久保田淳,吉野朋美校注『西行全歌集』岩波文庫 を求めた。西行の素直な読み口に現代語訳は要せず、白洲正子は「後記」で、 「総じて辻褄が合うような人間はろくなものではなく、まとまりのつかぬところに西行の真価がある。」(304頁) と述べているが、同病相憐れむといおうか、「ねがはくは」私もぜひその一隅においていただきたいものである、と切に思っている。  以上、途中経過でした。 「読む」と「書く」、いまは「読む」ことを優先させていただきます。悪しからず!! 以下、 ◇ 「小林秀雄『西行』_この空前の内省家」 ◇  白洲正子「西行と私」 ◇  梅雨晴の間に間に_西行「虚空の如くなる心」 ◇  梅雨晴の間に間に_「西行と明恵 その一」 ◇  梅雨晴の間に間に_「西行と明恵 その二」 です。

井筒俊彦「古今和歌集_その普遍的「本質」としての美」

2021/06/14 より、 ◇ 高田祐彦訳注『古今和歌集  現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を読みはじめ、昨夜読み終えた。一週間におよんだ読書(和歌)体験だった。異例づくめだった。 「古今和歌集_その普遍的「本質」としての美」 井筒俊彦『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』岩波文庫 「少くとも『古今集』において古典的完成に達したものを和歌の典型的形態として考えるなら。『古今』的和歌の世界は、一切の事物、事象が、それぞれその普遍的「本質」において定着された世界だ。春は春、花は花、恋は恋、というふうに自然界のあらゆる事物、事象から人事百般まで、存在界が くまなく普遍「本質」的に規定され、その上でそれらのものの間に「本質」的聯関の網目構造が立てられる。もし現実の経験で、何かが自らの普遍的「本質」に背くような形で生起したり、またはそれの本来的に所属する「本質」聯間から外れたりすれば、その意外性自体が一つ詩的価値を帯びるほどの強力な規定性で、それはある。」(53-54頁)    これは、例えば、『古今和歌集』が、ただ 「日本的美意識の原点(鈴木宏子)」である、と評することとは次元を異にしている。それは、井筒俊彦が名づけた「言語アラヤ識」、ユングのいう「集団的無意識」あるいは「文化的無意識」内の普遍的「本質」としての美の表われであり、一切私たちには触れることのできない生得的な、深層の文化的な美意識である。  遅きに失したが、これらへの興味から、今回『古今和歌集』を手にした、のはいいが、七転八倒の毎日だった。一週間におよんだ、と書いたが、毎日ほぼ一日中和歌と向き合っての、お粗末な七日間であった。  各所に、 枕詞、序詞、 掛詞、縁語、見立て、 歌語、 歌ことばが配され、 三十一字のなかには、幾多の景色が広がっていた。再読を促されているが、眼をつぶり 先に進むことにする。 和歌にも少しは慣れ、次回は、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』 角川ソフィア文庫 を併読し、 そして「三代和歌集」へと歩を進めます。細部にとらわれることなく、通読を心がけます。

「Kindle Direct Publishing_広告_その三」

 しばしば見るのは忌々しく、毎日見るのは癪に障り、知らんぷりして時折、「Kindle Direct Publishing」に載せた電子書籍のダウンロード数を確認している。 2021/06/03 に、 ◇「本多勇夫 / まだ 折々の記_06」: 〜大野晋編〜  が、また  2021/06/15  には、 ◇「本多勇夫 / なおなお 折々の記_10」: 〜岡潔編〜 が、いずれも、 「Kindle unlimited(定額制の読み放題)」の方たち によってダウンロードされ、これで少なく見積もって、11冊の電子書籍がダウンロードされたことになった。それにしても貧果である。  Google の検索窓に自分の名前を入れて検索すると、多くの項目が並ぶようになったが、いかがわしいサイトも目につき、悪用されているようで不愉快な気分になる。  電子書籍化していないブログが優に一冊分はある。 ◇「本多勇夫 / またして 折々の記_14」: 〜雑文 編〜  として、 「Kindle Direct Publishing」の書棚に並べようと思っている。なんの期待もしていない。この際ただ整理したいだけのことである。前回のように根を詰めるのではなく、鷹揚に構えている。  一昨日から、 ◇ 高田祐彦訳注『古今和歌集  現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を読みはじめた。1100首ある和歌の、いま597首を読み終えた。 「言霊のさきはふ」和歌の言葉に対するには、相応の体力を要する。

TWEET「『徒然草』_信頼に足る確かな「たしなみ」の書」

 学術的なことは詳らかではないが、私は『徒然草』を「たしなみ」についての教養の書であると一括りに括っている。立居振る舞い然り、美意識然り、教訓また無常感然り、話題は広範におよぶが、それらは皆、信頼に足る確かな「たしなみ」の範疇での出来事である。 全段再読したが、やはり、 ◇ 「第二一九段 四条黄門命せられて云はく」 ◇ 「第二二0段 何事も辺土は」 は面白く、また、 ◇ 「第二一七段 或る大福長者の云はく」 (以上、「 Es Discovery」さんのサイトより ) の掉尾は、 「ここに到りては、貧富分(わ)く所なし。究竟(くきやう)は理即(りそく)に等し。大欲は無欲に似たり。」 ◆「 究竟は理即に等し。」 (「悟りの境地である究竟は、迷いの境地である理即に等しい。」) との文で結ばれていて、禅語を聞くかのようである。 一昨日の夕方、 ◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 を注文した。一八0段までを、 ◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 で読み、そして届き次第、以降を、 ◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 で読んだ。  対照すれば、やはり差異はあり、面白く読んだ。そして、西江先生のことを思った。                「† 翻訳とは「演奏」である」 西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社 「言語は互いに「置き換えられる」という話と「翻訳」の話とは大いに違うんです。  翻訳というのは、ある言語で表現されたことを、意味の上でも形の上でも原文に近い形を保ちながら、ほかの言語に置き換えることです。その置き換えは、制約の中での一種の「演奏」なんです。つまり、本来の文章をいかに訳すかは、翻訳者の腕によるわけです。」(106-108頁) 「翻訳」は「演奏」である。創造的な行為によって、楽譜は音に昇華される。楽譜から逸脱することは許されないが、 あとは自由である。自分の裁量で動くことができる。 「翻訳」を「現代語訳」に置き換えて読んでみれば、とそんなことを思いつつ読み継いでいった。 ◇  島内裕子 「徒然草の達成と現代」 ( 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 489頁) は名文です。遠く、私のおよぶところではありません。ぜひ書店で立ち読みしてください、とはいえ、 田舎の書店 でのこと、書棚...

TWEET「『枕草子』_その古典文学における稀有の青春性」

昨夜、 ◇ 清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 上』ちくま学芸文庫 ◇ 清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 下』ちくま学芸文庫 を読み終えた。  読み進めるうちに、「 註」がないことに気づいた。見れば「訳校訂」とだけ記されていて、不思議に思ったが、読み継いでいくうちに、「現代語訳」中に「註」が反映されていることが分かり安心した。  島内裕子は、「語注」や「語釈」を付けなかった理由を、巻末で、 「本書によって『枕草子』の全章段にわたり、「原文・訳・評」をひとまとまりとして、先へ先へと読み進むことが可能となることを企図している。連続読みによって通読してこそ、『枕草子』の世界が生成してゆく時間を、作者である清少納言と共有できる。その体験が、『枕草子』を読むことにほかならない。」( 清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 下』ちくま学芸文庫  504-505頁) と説明している。ただし、「原文で通読する」という意味であり、原文中の「ルビ付きの漢字」や「句読点」の多用はそのための工夫である。しかし、私は、相変わらず「現代語訳」を読みつつ 、これでは『枕草子』の面白みは半減してしまうだろう、と思っている。  きらびやかな王朝文化、宮廷人の艶姿(あですがた)の一端を垣間見た。清少納言の才気煥発、当意即妙は群をぬいて鮮やかであるが、毀誉褒貶については、褒誉された側は誉高いが、貶められた側は立つ瀬がなく残酷な場面さえ見受けられる。  清少納言が出仕したのは数えで 28歳、そのとき一条天皇の中宮であった定子は 17歳であった。そして、定子は 25歳という若さで崩御され、その間 わずかに 8年間 のことが『枕草子』に描かれることになった 。  その後浮沈があり、清少納言の行方は未詳のままとなっている。 「一つの時代の終わりは、古典文学における稀有の青春性も終わらせた」(清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 下』ちくま学芸文庫 509頁) と、島内裕子は書いている。 ◇ 島内裕子「『枕草子』をどう読むか」 ( 清少納言,島内裕子校訂訳『枕草子 下』ちくま学芸文庫 501-505頁) をぜひお手に取ってご覧になってください。名文です。遠く、私のおよぶところではありません。  はじめて古典にふれた気がしています。 『徒然草』を再読し、『古今和歌集』『新古今和歌集』へと歩を進めます。「記紀万葉」は、お...

TWEET「お能の秋です。能繁期です」

昨日、 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 上』ちくま学芸文庫 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 下』ちくま学芸文庫 が届くまでの間、積読したままになっていた、 ◇ 世阿弥,竹本幹夫訳注『風姿花伝・三道 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を読んだ。 『風姿花伝』は、世阿弥が、相伝者であった弟四郎に、また「花伝第七 別紙口伝」は、元次(もとつぐ、世阿弥の嫡男か)に宛てて書かれた秘伝の能楽論である。 秘伝書を私が密やかに、読み耽っていたわけであるが、門外漢である私にはおしなべて通り一遍の読書に終始した感を抱いている。 「たけ」(芸の品格)について書かれている、「風姿花伝第三 問答条々」第六問答(位(くらゐ)の差別(しゃべち))に魅かれた。現代語訳を何度か読み、また註を参考にしつつ原文にも当たったが、口ごもったような物言いで、矛盾しているようにも感じられ、得心するまでにはいたらなかった。 「本条は『風姿花伝』の中でももっとも難解な一条とされている。世阿弥の芸位論は、稽古の階梯(かいてい)論として後年の能楽論で高度に展開されるところとなる。そうした晩年期の芸位論に比して、本条の芸位論は、途中に挿入句があって論理的に飛躍した印象を与えるために、「物学条々」の鬼の条と並んで、世阿弥がまだ十分に論を整理していない段階で執筆された、いわば未熟な論であるという指摘もある。」(128頁) との記載が【解説】にあり納得した。 「たけ」は生得的なものであるが、稽古を積めば追いつくものか、適わないものなのか。  そもそも能における「たけ」とはいかなるものか。 「答ふ。これ、目利きの眼(まなこ)には、やすく見ゆるなり。」 とあるので、はっきりと自覚できるものなのであろう。  学生時代、竹本幹夫先生の能楽論の講義を二年続けて受講した。真摯で真面目な授業態度だった。竹本先生は、表章(おもてあきら)先生のお名前をよく口にされていた。 「お能の秋」です。 「能繁期 」です。  能楽堂に足を運ぶこともなく、能楽論だけに終始した学生時代をもったいなく思っている。大学というところは、学生には過ぎたところだと思っている。

TWEET「『徒然草』_原文の姿を知らず」

◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を現代語訳で読んだ。原文の味わいを知らず、素っ気ない読書に終始した。 「 第二一九段 四条の黄門」, 「第二二0段 何事も辺土は」の二編 を特に面白く読んだ。いずれも楽器の音についての話題である。 明日には、 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 上』ちくま学芸文庫 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 下』ちくま学芸文庫 が届く予定である。味気ない読書の続編である。  大学では日本文学を専修した。これが、「日文専修」の実力である。

TWEET「野分立つ」

 野分立ち、今夜半から荒れ模様の予報である。 『風立ちぬ』、秋草は風に吹かれるままに、葉擦れの音が聞こえる。  春愁秋思といえば、一休かと思い、 ◇ 水上勉『一休』中公文庫 を手にし、また良寛かと思い、 ◇ 水上勉『良寛』中央公論社 をしばし手に取ったが、読むまでにはいたらず。   気象も手伝ってか、迷宮入りした。 追伸:『徒然草』を読むことにしました。秋の夜長に古典事始めです。  

TWEET「利休の『醒めるために見た夢』」

 二日(ふたひ)、今日もひとり、蕭蕭とした秋風に吹かれている。  梅雨空も、喧騒の夏もやり過ごし、沈思の秋のなかにある。  秋がいい。  白い道の向こうには利休の後ろ姿が見え隠れしている。 命を賭してまで護らなければならないものがあった。死によってのみ完結するものがあった。命とは如何ばかりのものでもなかった。 利休の 「醒めるために見た夢」の帰結だった 。 ◇ 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫 ◇「醒めるために見た夢」    白洲正子『ほんもの - 白洲次郎のことども - 』新潮文庫 「昭和と私」(247-252頁)

TWEET「梅雨空の下、秋思に沈む」

 日付が変わり、六月を迎えた今日、急に秋風が吹きはじめた。  ひとり蕭々とした風に吹かれている。  弛緩して力なく、虚弱へと転落した。 「何でこんなに淋しい風ふく」  梅雨空の下、秋思に沈んでいる。 「朱夏」に、「白秋」を綴ろうと思う。 ◇ 早坂 暁『山頭火―何でこんなに淋しい風ふく』日本放送出版協会(1989/08) ◇「何でこんなに淋しい風ふく」  種田山頭火『定本 山頭火全集 第一巻』(春陽堂書店、一九七二年)二六四頁。『草木塔』所収。

TWEET「さて」_1/?

「ハイウェイラジオ」をはじめて耳にしたとき、大いに驚き、大きな違和感を覚えた。  一個の道路情報と別個の道路情報が、すべて、「さて」という接続語で接続されていたからである。どなたの発明になるものかは知るよしもないが、新手の手法である。軽快で可笑しくて、いまではすっかり、「ハイウェイラジオ」ファンになってしまった。 「ドラぷら」 さんのサイトには、 「放送内容は、道路管制センターへ集約された情報をもとに、あらかじめ録音された単語をプログラムでつなぎ合わせて自動的に作成しています。コンピューターに登録されている単語は約5,000語にも上ります。」 との記載がみられる。アナウンスの女性の方の苦労を思いやっていた私は、すっかり肩透かしを喰らった格好である。また、「 約5,000語」の「単語」で事足りる情報の貧弱さを思ってみたり、情報に文学的表現は必要なく、この程度で用を足すのかと思ってみたりもしている。  今月中に、三つの「TWEET(小鳥のさえずり)」を続けて書こうと思っていた。願いはかない、今朝、四つ目の 「TWEET」の推敲を終えた。テントマットに横たわり五つ目の話題を探していたが、単発的な話題ばかりに終始し発展性がなく弱っていた。  そうこうしているうちに、「さて」を思い出した。そこで、「さて」の登場である。ようやく到着した。 To be continued.

TWEET「数を凌駕するもの」

「Kindle Direct Publishing」さんの書棚に電子書籍を並べるために、際限なくコピペを繰り返した。以来ブログが、毛を刈られた羊のように、寒々としてやせ細ってしまったような感触を抱いている。いくらコピペを繰り返そうが情報量に変わりが ないのは当然のことであるが、そんな気がしてならない。数は絶対であるか。数は指標であり、感触が数値を凌ぐことがないとはいえまい。  たとえば、小林秀雄の、白川静の、また中井久夫、井筒俊彦についての文章をブログ上に載せた日の閲覧数は極端に少ないが、これらのブログは、 「ロングテール」 を成すものであって、いつか検索される日を待っている。ロングテールに位置するブログの、毎日の検索件数は、日々の検索総数の8割程度を占める。ロングテール内で息をひそめて、声がかかるのをじっと待っているブログは、私にとって思い入れのあるブログであることが多く、毎日の楽しみの一つになっている。

TWEET「一人がいい、二人ではもう窮屈である」

 いま古社寺を巡りたいとしきりに思う。しかし、緊急事態宣言の下、県境(けんきょう)を跨いでの移動、不要不急の外出の自粛を心がけなければならないことくらいは、私にも理解できる。自由を制限された生活とはなんと窮屈なことだろう。  近江路・京都・奈良大和路、または、伊勢神宮・室生寺・大野寺・本居宣長記念館・本居宣長之奥墓(おくつき)・熊野古道、いつもの道行がいい。いつもの旅程で構わないが、「三徳山三佛寺 投入堂」を知り、これほどの美と対面してしまったいま、参拝しないわけにはゆくまい。  私は、2021/02/08 のブログ、 土門拳「三徳山 三佛寺 投入堂」 に、 「投入堂には、疑うことを知らぬ、重力に身を任せきっているもののもつ美しさがある。これは信仰である。投入堂は信仰をもつ者の静けさをたたえている。一つの疑念がそれを崩壊へと導く。  投入堂は平安な一体の仏像である。 「三仏寺に拠る平安時代の初期修験者集団」が、 「懸造の高架建築」を建立することにおいてのみ 「偏執狂的に憑かれていた」、意味を見いだしていた、とは到底考えられないことである。彼らは建築屋ではなく、行を行ずる者たちであった。一個の 「懸造の高架建築」と一体の仏像は彼らにとって等価なものであった。投入堂は彼らの祈りだった。  土門拳の写真をよく見るのは難しい。一枚の絵をよく見るのと同様の難しさがある」 と書いた。  サイトを見ると、 「現在、参拝登山が可能です」 と書かれているが、 「投入堂へ参拝をされる際には、必ず二人以上、また両手が使えて運動のしやすい格好でおこしください。」 との断り書きがあり、足枷となっている。同伴者が見当たらない。「一人で心ゆくまでがいい、二人ではもう窮屈である」とは、理由にならないのだろうか。

TWEET「伸びる芽は摘まず、助長もせず」

「ベッドの上はすっかり書籍に占有され、庇を貸して、すっかり母家を取られた格好だった。かたずけるのも面倒で、テントマットを敷き、シュラフ(寝袋)を被って畳の上に寝た」   TWEET「庇を貸して」 を書いた 2021/05/15 以来、相変わらずの占有状態であり、相も変わらぬ寝床である。このごろではこの寝姿で、作文のあらましを考える習慣がすっかり定着した。ものぐさだが、折角身についた態度を振り解(ほど)く必要もなく、そのままにしてある。当然休眠状態に移行することも多いが、それは思し召しのままに、ということである。  あらましを頭のなかで描くように心がけている。頭の内の作業であれば、時ところを選ばず都合がいい。文章には生き物のようなところがあり、いざ書きはじめれば、どこに飛び火し、どこに運ばれるかは予測不能である。あらましについてはこの程度が適当か、と思っている。  何冊かを重ねた教科書の上に乗ると、ふわりとした感触が足に伝わり心地よいことを、いつしか発見した。幾重もの空気の層ができているからだろうか。不謹慎といわれれば返す言葉がないが、秘かな私の楽しみとなっている。  思わぬことから思わぬところへ発展することがある。伸びる芽は摘まず、助長もせずと思っている。

TWEET「そこに灯火の明滅があれば」

 当地では、 2021/05/16 ころに、例年より21日早く梅雨入りし、以来梅雨空が広がっています。あまりにも早い梅雨入りに、いまが 5月なのか、6月なのか怪しくなることがあります。  毎年梅雨入り目前の 06/05 前後に螢狩に出かけます。いつもの場所のいつもの所に陣取り、ぽつり、ぽつりと明滅する螢を鑑賞します。田植えを終えた背後の水田からは、蛙がしきりに鳴き声を上げています。そしてあわよくば、北極星を中心とした北の夜空の天体ショーが望めます。  コロナ禍の影響とは考えられませんが、季節を問わず、異常気象による、各地での災害の報道ばかりが目につきました。人事は大きな惨禍に見舞われ、また官民の対応については見苦しさばかりが露呈した、この一年と数ヶ月でした。  今年の螢の乱舞はいつか、芭蕉ならば、「螢のことは螢に習え」ということでしょうが 。繊弱な螢が気象や人事の影響を受けることは免れず、死滅という唯一の抵抗をみせるや もしれません。  風物詩です。やはり、 06/05 前後の雨間を縫って出かけることにします 。ひとり水無月の闇に紛れるのを楽しみにしています。そこに灯火の明滅があれば幸いです。

「倉本聰先生_2021/03/29」

倉本聰先生  当地では桜の花が見ごろを迎えておりますが、春遅き北の地とはいえ処処に、春の兆しが認められるころか、と拝察しております。  お体のお具合はいかがでしょうか、お加減のことばかりが気になっております。  突然の失礼をお許しください。  同梱いたしました、 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 は、 平成三年(1991年)九月に提出した卒業論文です。  倉本先生宛に認めたお便りです。二百字詰原稿用紙 599頁を、二分冊にして、各二部ずつ製本いたしました。甲斐あって、早稲田の杜で六年と半年の隠棲生活を送る羽目になりました。一部を先生にお届けしようと意気込んでいたのですが、失速し、頓挫したままになっておりました。  思い直して、平成二九年(2017年)四月から数か月をかけて活字化したものの、今回は墜落し、命からがらでいまにいたっております。  今回 Amazon の「Kindle Direct Publishing」さんの書棚に 2021/03/15 に電子書籍として並べていただきました。  いまとなっては古びていて、かび臭い代物ですが、富良野市六郷の森では、五郎が、純が、螢が息づいています。まぎれもなく私の青春でした。若気のいたりでした。  どうかご笑納くださいませ。 また。 くれぐれもお大事になさってください。ご自愛ください。 ますますのご雄飛をお祈りいたしております。 本多勇夫(自著) 以下、ブログ(2020/05/31)からの抜粋です。 『北の国から』の地_´95 初夏 富良野市六郷の森にて  北海道(札幌市在住の弟の自宅)を訪れたのは、Nさん(姪)がまだハイハイをしていたころ、いわさきちひろさんの淡彩から這い出してきたかのような、かわいらしい赤ちゃんでした。  「秀岳荘 北大店」でツェルトとスタッフバッグを仕入れ、また「石井スポーツ 札幌店」ではシュラフと「EPI CLIMBER′S COOKER S」、そしてマグカップを購入しました。  その後 六郷の森へ向かいました。富良野岳を望み、ツェルトで何日かを過ごしました。  六郷小学校の子どもたちが、登校時に、 「生きてますか?」 と気づかって、声をかけてくれました。危なっかしくって、見ていられなかったのかもしれません。  その後六郷の森を後にして、富良野駅のお隣の布部駅に場所を移しました。水場やト...

「小川糸『ツバキ文具店』幻冬舎文庫_鎌倉案内として」

「ツバキ文具店」では、「手紙の代書」の仕事も請け負っていた。手紙の文面の原稿書き、作文屋だとばかり思っていたが、手紙の完成形を投函するまでの一切を引き受け、その内容は想像以上に深刻だった。 「代書仕事は、いろいろな人の心や体になりきって文字を綴る。自分で自分をほめるのもなんだけど、様々な人の字に憑依(ひょうい)するのも、上手にできるようになった。」(174頁) 「あんなに数多くの代書仕事をこなしていたのに、先代は決して自分を見失わなかった。己というものを、死ぬまで持ち続けた。そして体が滅びても尚、書き残した文字の中に脈々と生きている。そこには魂が宿っている。書き文字というのは、本来そういうものだった。」(175頁)  また、 176項には、 「手紙にしたためられた言霊(ことだま)」 という表現もみられる。  「書道」という「道」があり、それは「空観」に通じる精神性の高いものであることは容易に察することができるが、残念ながら私には及ばない世界である。  本書には代書したそれぞれの手紙の、個性的な文字を見る楽しみもある。  昨年の晩秋、私が「いざ鎌倉へ」と騒いでいたころ、Dr.T から鎌倉案内として、 ◇  小川糸『ツバキ文具店』幻冬舎文庫 を紹介された。 「いま『ツバキ文具店』を読んでいます。決して面白くないわけではないのですが、すぐに眠気を催します。いつの間にか冗長な小説一般が体質に合わなくなってしまいました。このさらさら、さらさら流れるような文体は、もっと若い筆者の書かれた文章かと思っていましたので、意外でした。」(2020/11/04)  私は数十頁読んだところで投げ出し、鎌倉で落ち合う約束になっていた Hに、「代読」してもらった。その後コロナ禍の下、鎌倉行きは立ち消えになり、いまに至っている。風雲急を告げ、 駆けつけるも武士、留まるも武士かと心得ている。  さらさら、さらさら流れていくこの文体の正体を見極めようと読み進めたが、その余裕もなく、さらさら、さらさら流されるままに読み終えた。比喩表現が多用されていて、目障りだった。読み進むほどに少なくなっていったが、一頁めくった 346頁の一行目には、 「鳥たちが、夜の名残りをついばむように、賑やかな声でおしゃべりしている。」 との一文があり、この一文でこの作品が結ばれているのは、さすがに可笑しかっ...

本田靖春『評伝 今西錦司』山と溪谷社 _その一

 2021/05/14 の夜、 霊長類学者の河合雅雄さんの訃報に接し、その後 長い間 積読したままになっていた、 ◇ 本田靖春『評伝 今西錦司』山と溪谷社 「 発行日 1992年12月1日 初版第一刷」 の奥書がある、古参の単行本を読みはじめ、昨日(2021/05/19)の明け方、読み終えた。  積読したままの書籍が息を吹き返す、生きることは、私にとって非常にうれしいことである。では徒らに、積読したままになっている書籍を読めばいいのかといえば、それは見当はずれである。  70頁ほど読み終えたところで、本書は「評伝」であり、出版社は「山と溪谷社」であることに思いをいたした。本田靖春は元読売新聞社の 記者であり、本書には多くのインタビュー記事(今西錦司評等々)の記載があり、また 出版社が「山と溪谷社」だけに、 今西の手法であった「学術探検」の「探検」に重きがおかれていることを再認識した。 ◇ 本田靖春『評伝 今西錦司』山と溪谷社 は、 ◇『山と溪谷』1989年10月号から1911年12月号 に連載された特集が、単行本として発行されたものである。ただし、 本田の病のために、2度におよぶ、計13か月の「休戦」をやむなくされた。  今西錦司の「学術的業績」、膝下からの「数多くの優秀な学者の輩出」、その「リーダーシップ」は認めるが、人となりは好きになれず、どんなものかと昨日から彷徨っていた。  武士には馴染みがあるが、町人気質(かたぎ)については本書を通してはじめて触れた。今西錦司は、「『錦屋(にしきや)』という西陣でも有数の織元」の家に生まれた、典型的な町人の血筋をひく者である。  簡潔にいえば、「武士道」は成立するが、「町人」には道らしきものはなく、よって好みではない、ということである。  今西を非難、批判する声ばかりが目立つ、しかし尊敬に値するからついていく。短所を補ってまだ余りある、ここに今西錦司の摩訶不思議さがある。   人格と業績は別個であることは、よくわきまえていますが、 今回はこれくらいにさせていただきます。   今しばらく彷徨することにいたします。  なお、河合雅雄は、「第9章 霊長類研究グループ」(285頁)から登場します。河合は、「類人猿の中でもとくに(チンパンジーやオランウータンよりも)ゴリラが人に近い」(302頁)と今西に進言している。これが今西のゴリ...

「Kindle Direct Publishing_広告_その二」

 昨日の夕方から今日の午前中にかけて、「KDPサポート」の方と  3回にわたってメールでやり取りした。そして、疑問が晴れた。  電子書籍の「注文」総数(売り上げ総数)「1」という快挙は、快挙のままであるが、この数字には、「Kindle unlimited(定額制の読み放題)」の方たちがダウンロードした冊数が含まれておらず、それは、グラフの「既読ページ数」にしか反映されません、とのことだった。詳細は省くが、正確なダウンロード総数(読者総数)を 把握することはできないが、概数ならば分かり、少なく見積もって、9冊の電子書籍がダウンロードされたことが分かった。  大躍進である。 「既読ページ数」は、井筒俊彦、小林秀雄の順に多く、意外な感じを抱いている。 「KDPサポート」の方へのメールには、謝辞とともに、最後に、 「正確なダウンロード総数(読者総数)が分かるようなシステムに改善してください。それが、「Kindle Direct Publishing」さんにお世話になって、出版させていただている、少なくとも私の楽しみであり、励みにもなります。」 と書き加えた。すると、 「なお、今回いただきましたご要望につきましては、担当部門にて共有し、今後のサービス改善の参考とさせていただきたいと存じます。  お忙しいところ、貴重なご意見をお寄せいただき、誠にありがとうございました。  KDPではお客様に満足していただけるサービスを提供できるよう努力してまいります。  今後ともよろしくお願いいたします。」 との立派な挨拶が返ってきて、恐縮しきりだった。  たとえ定型文だとしても…。  相変わらず、意地悪ですね。しかし、 意地悪はやめられず、今後も意地悪に徹します。

TWEET「庇を貸して」

  一昨日、 開高健「文房清玩」 について書いたが、 (昔の中国の文人が硯や筆や紙に凝って一人で書斎で楽しんでいた様子を「文房清玩」と表したと、小説家開高健は自著の中で何度か語ってきた。) 「文房清玩」には順位があり、まず自室を清浄に保つ必要がある、との思いから、昨日部屋を入念に掃除した。足元に散らかしてあった書籍をベッドの上に乗せることからはじめた。調度品は掃除がしやすいように並べてあるが、日頃の運動不足(運動皆無)がたたって、すぐに疲れ、一服ばかりしていて、いっこうにはかどらなかった。午前中の早い内からはじめて、終わったのは夕刻だった。  その後、愛玩用の、 ◇「 ペリカン 万年筆  M205 DUO イエローデモンストレーター」 ◇「ペリカン 万年筆 M205 DUO シャイニーグリーン」 と、卒業論文を書く際に購入した、ひどく傷んだペリカンの万年筆に加えて、二本の吸入式の万年筆を洗浄した。こちらの手入れはいっこうに苦にならなかった。いま陰干し中である。  さらにその後、「釣具清玩」。禁断のルアーボックスの蓋を開けた。 日がな矯めつ眇めつ、あるいは手に取って戯れ、ニタニタし、飽きもせず、開高先生におかれましても、なかったとは到底考えられない「清玩」癖である。  時計に眼をやれば深更で、あわてて寝ようと思えば、ベッドの上は書籍にすっかり占有され、庇を貸して、すっかり母家を取られた格好だった。 かたずけるのも面倒で、テントマットを敷き、シュラフ(寝袋)を被って畳の上に寝た。この事態も「清玩」と思えば「清玩」であり、折角なので、今夜からは「ヘリテイジ トレイルシェルター」内で寝ようかと思っている。上等なひとり寝である。  「清玩」とは、行住坐臥、これ気品に極まる、と独り合点している。

開高健「文房清玩」

 今朝 開高健の記した色紙ことを思った。  起き抜けに検索した。 「漂えども沈まず」 「悠々として / 急げ」 「毒蛇は急がない」 「朝露の一滴にも / 天と地が / 映っている」 「小説家 開高健 オリジナルグッズのご紹介」 文房清玩。物を愛し、物に愛された稀有な小説家 亜熱帯の戦場で、氷雨の原野で、深夜の書斎で一本の指となり、創造の起爆剤ともなるライター、パイプ、ナイフ、万年筆、ジーンズ、帽子・・・。  昔の中国の文人が硯や筆や紙に凝って一人で書斎で楽しんでいた様子を「文房清玩」と表したと、小説家開高健は自著の中で何度か語ってきた。彼にとって、彼の人生に常に寄り添っていたさまざまな「静物」たちは、まさに「文房清玩」そのものだったであろう。  どうしようもなく欲しくて買った文房具が何点かある。釣り道具ならば、登山用品ならば何点もある。大切にしまってあるが、それは半可通のすることである。日用品として使ってみたところで、いまだ生半可な域内での出来事である。日がな矯めつ眇めつ、あるいは手に取って戯れ、上等な暇つぶしの時間をもちたいものである。 「文房清玩」。  そうこうしているうちに胸騒ぎがしてきた。 以下、 「小説家 開高健 / オリジナルグッズのご紹介」 です。また、 『男と女は誤解して愛し合い 理解して別れる』 です。

「Kindle Direct Publishing_広告」

まずはじめに、 ◇  「本多勇夫「倉本聰私論」:〜『北の国から』のささやき〜」 を除く、13編すべての電子書籍を更新し、一応の体裁を整えました。しかし、以前にダウンロードされた書籍は自動では更新されず、申し訳ありませんが、 「note」 さんのサイトに記されている手順に従って、あるいは直接 「電話」 にて、 「Kindle Direct Publishing」さんに連絡して、更新してください。「無料サンプル」は更新されています。    なお、「未出版」扱いにした、または「ブロック」された書籍はリンクが切れ、再ダウンロードできない事態になっています。ご迷惑をおかけしてたいへん申し訳なく思っております。 現況をお知らせいたします。広告です。 ◇ 「本多勇夫 / それ行け 折々の記_03」:〜推薦図書編〜」 :1冊(カナダ在住の方) (旧書名「本多勇夫 / 続々 折々の記_03::〜推薦図書編〜」) ← 更新してください。   P 教授のご厚情による5冊のご購入。 そして、私が各1冊。  あまりの貧果に茫然自失としています。  思えば、私がとり上げた人物は、漱石、司馬遼太郎を除けば読者層は限られ、さらに、その少数派に与する方たちに電子書籍を読む習慣があるとはとても考えられず、当然の成り行きということなのでしょう。  また、ブログをご覧になってくださっている方々は、検索すればほぼ同じ内容の文章が読めるわけですし、期待することなく、今後の推移を見守ることにします。  浅はかでした。次回は複数冊の売り上げを目指します。

TWEET「Kindle Direct Publishing_つわものどもが夢の跡」

2021/04/29 に、 ◇ 「本多勇夫 / なおかつ 折々の記_13」: 〜白洲正子編〜」 を「Kindle Direct Publishing」上に上梓し、その後編集作業をしていました。  試行錯誤、七転八倒はお手のもの、とはいえ、どうしてここまで使い勝手の悪い、複雑怪奇な仕組になっているのでしょうか。意地悪が過ぎます。 「note」 さんのサイトに出会い、救われました。理屈が解り、後は淡々と作業を進めました、とはいえ、疲労、疲弊、消耗しています。へろ へろ状態です。 ◇  「本多勇夫「倉本聰私論」:〜『北の国から』のささやき〜」 を除く、13編すべての電子書籍を更新し、一応の体裁が整いました。しかし、以前にダウンロードされた書籍は自動では更新されず、申し訳ありませんが、 「note」 さんのサイトに記されている手順に従って、 「Kindle Direct Publishing」さんに連絡して、更新してください。「無料サンプル」は更新されています。 ◇  「本多勇夫「倉本聰私論」:〜『北の国から』のささやき〜」 は、今回はお預けです。「『北の国から』のささやき」には耳を傾けず、ということです。  10冊の、「未出版」にあるいは「ブロック」された書籍があります。いまならば対応できるものばかりです。浪費しました。「つわものどもが夢の跡」です。  なお、「未出版」扱いにした、または「ブロック」された書籍はリンクが切れ、再ダウンロードできない事態になっております。ご迷惑をおかけしてたいへん申し訳なく思っております。  列島は「変異株」の猛威にさらされていますね。 「ごきげんよろしう」。 くれぐれもお大事になさってください。ご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸:その後、 「Kindle Direct Publishing」さんに連絡して、13編の「 本多勇夫 / 折々の記」のすべてを 更新していただきました。

TWEET「ごきげんよろしう」

2021/04/29 に、 ◇ 「本多勇夫 / なおかつ 折々の記_13」: 〜白洲正子編〜」 を「Kindle Direct Publishing」上に上梓し、いったん休止。今後編集作業を急ぎます。  2021/03/10 からはじめたことですが、2021/04/17 まで試行錯誤を繰り返し、満足に使いこなすことができませんでした。疲労、疲弊、消耗するばかりでした。  その後、2021/04/24 から 2021/04/27 の4日間には、総数 2000件を越えるアメリカ在住の方の閲覧が、昼夜を分かたずあり、猛威にさらされました。現在、2726件のブログを載せてあり、また重複したブログも相当数ありますので、全制覇していただいた、ということでしょうか。「ごきげんよう」とだけ申し上げておきます。 「ごきげんよう」とはずいぶん便利な挨拶語ですね。  では皆さん、「ごきげんよろしう」。すてきなGWをお過ごしください。    

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / なおかつ 折々の記_13』: 〜白洲正子編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / なおかつ 折々の記_13」: 〜白洲正子編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。 「明恵上人における徒者(いたづらもの)」 白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫 「高山寺に住んでからの明恵は、変ないい方ですが、だんだん透き通って行くように見えます。」(124頁)  明恵上人が栂尾高山寺に移ったのは建永元年(1206)、34歳のときのことです。  以下、明恵上人の言葉です。  『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり』(遺訓)(124頁)  『我れ常に志ある人に対していふ。仏になりても何かせん。道を成じても何かせん。一切求め心を捨てはてて、徒者(いたづらもの)に成り還りて、ともかくも私にあてがふことなくして、飢え来たれば食し、寒来れば被(かぶ)るばかりにて、一生はて給はば、大地を打ちはづすとも、道を打ちはづすことは有るまじき』(125頁)  『生涯此の如く徒者に成り還らば豈(あに)徒(いたづら)なることあらんや』(遺訓)(125-126頁)  明恵上人における「徒者」とは、碍ることの無い境涯にある者、「仏法に能く達したりと覚しき人」のことである。仏は仏であってさえ、仏法は仏法であってさえ、また道は道であってさえならない。そして、それらを方便であると抛擲した明恵の境地や、無作為、無頓着、またその無関心ぶりは爽快である。 「お能はお能にも執着してはならないのだ」といった白洲正子の言葉を思い出す。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 重ね重ね 折々の記_12』: 〜小林秀雄編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / 重ね重ね 折々の記_12」: 〜小林秀雄編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。   小林秀雄の文章の美しさは、語の配列の美しさにある。ときに配される、落ち着きを欠いた語に、はっとさせられる。破調の「美」である。「神さま」の適材適所に狂いはない。   小林秀雄の文章に真偽を問うのは愚かである。日本語が、これほど精緻な「美」を成すことにまず驚く。「美」は、詮索に堪えない。 『真贋』を読みつつ、「真贋一如」ということを思った。「真贋」は、相補的な関係にあり、混然一体となっているところにおもしろみがある。「贋」なくして「真」はたちまちのうちに姿を晦(くら)ます。これほどつまらない世界はない。 「では美は信用であるか。そうである。」   あまたの「西行論」のなかで、私は小林秀雄の繙(ひもと)く、懊悩する西行の「美」の変遷を「信用」する。「美」は真偽の判断を竢たない。ひとえに「信用」の問題である。

「神の竪琴の演奏」

「神の竪琴の演奏」 2017/12/14 『ケルビムのごとき旅人』(『シレジウス瞑想詩集』植田重雄・加藤智見(ちけん)訳、岩波文庫、第五書[下、第五章])の箴言 三六六でこう言われています。  この根底に静かに神が宿っている人の心は、神が望むままに神に触れられるのを喜ぶ。だからその心は神の弾く竪琴である。  この箴言には「神の竪琴の演奏」という表題が付けられています。それこそがモーツァルトなのです。(164頁)  モーツァルトが聞く者たちのなかでもっともよく聞く者だったということ、つまり彼はそういう者として現生したのであり、したがっていまもなおそうだということなのです。(163-164頁)

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 重ねて 折々の記_11』: 〜井筒俊彦編〜」

つい今し方、 ◇ 「『本多勇夫 / 重ねて 折々の記_11』: 〜井筒俊彦編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  ことば、言葉、コトバ、いま「ことば」の渦中にある。神、神々、霊、仏、に四囲を囲まれている。  学生時代からの関心事が一同に会した。  いくつもの偶然が重なっていまにいたった。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「ことば」が一気に心底にまで達した。思いもよらぬことだった。これ以上の椿事はない。私の趣向のすべてが一括りに括られた。  井筒俊彦が語るのは哲学である。昇華されたものが、共時的に把捉されているのがうれしい。信仰なき私にとって、井筒俊彦と向き合う、その時々が救いとなっている。  この世に生を享けたからには、この世の始原について知りたいという欲求がある。そして、曇りなき眼で四囲を見つめたい。美は曇りなき眼が見つける。  私にとって井筒俊彦の著作は「実学」の書であり、実用の書であり、やむにやまれぬ書である。  そして図らずも、紆余曲折を経て、井筒俊彦の哲学の文章が、次第に読めるようになっていく過程が ◇「『本多勇夫 / 重ねて 折々の記_11』: 〜井筒俊彦編〜」 に記録されることになった。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / なおなお 折々の記_10』: 〜岡潔編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / なおなお 折々の記_10」: 〜岡潔編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  まずはじめに、岡潔,小林秀雄『人間の建設』は、紙数の都合上、本編に分類した。  「数学は語学に似たものだと思っている人がある」。「語学と一致している面だけなら数学など必要ではない。それから先が問題なのだ。人間性の本質に根ざしておればこそ、六千年も滅びないできたのだと知ってほしい」。  「数学史を見ても、生きてバトンを渡すことはまずない。数学は時代を隔てて学ぶものだと思う」。後進による問題の解決を、飽くことなく待つ「数学という学問体系」の楽観には感心する。 「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、」「私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは『発見の喜び』にほかならない」。  岡潔の話は、私の抱いていた数学観とはずいぶん異なるものだった。また、たいへんな思索家でもあり、それが「情操」「情緒」の境地を深めることになった。  対談では、「初対面の二人が、延々十一時間しやべり続けて、一度も中座しなかつた」という。息の合った天才たちの対話は稀有な出来事であり、傾聴に値する。直接当書に当たってほしいと思う。本編がそのきっかけとなれば幸いである。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / なお 折々の記_09』: 〜河合隼雄編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / なお 折々の記_09」:〜河合隼雄編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  河合隼雄先生の膝下で学ぶことが希望だった。が、願いはかなわなかった。   勝手に私淑することにした。  たいへんな読書家であり、対談集も多く出版され、いつのころからか、「河合隼雄というフィルター」を通して本を読む、という習慣が身についた。特に、哲学や宗教に分類される書籍の紹介はありがたかった。ひとり歩きは油断ならない。 ◇ 河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社 は、1987/04/25 に出版され、間もなく読んだ。学生時代のことだった。明恵上人を知り、白洲正子を知った。井筒俊彦と出会い、はじめて華厳の世界に触れた。「華厳の世界」(284-290頁)に引かれた井筒俊彦の文章は明晰だった。コピーしてもち歩いた。そして、 ◇ 井筒俊彦『叡智の台座 ー 井筒俊彦対談集』岩波書店 を求めた。河合隼雄がとりもつ縁だった。しかし、その後長い間井筒俊彦との接点はなかった。  張り切りすぎて臨床の道に進まなくてよかった、といま思う。  とは別に、こちらは張り切って書いてみました。  ぜひご覧ください。

TWEET「悠長な話」

 2021/03/10 からはじめた。  消耗戦だった。  そして一昨日、 その理不尽さの全貌を知るにいたった 。 「Office」 純正の「 .doc /.docx」ファイルしか受けつけないことが解った。たとえば、「.pages」→ 「.doc /.docx」変換や、「.pages」→「.epub」「.pdf」に 変換したファイルははじかれた。  泣く泣く、「 Microsoft 365」を購入した。「.pages」から「.docx」ファイルにコピペ、その後、「すべての書式をクリア」し、「Kindle Direct Publishing」にアップすればいいことを知った。「プレーン」な状態である。今後整形し直す必要があるが、そのままに載せた 。一刻も早く書棚に並べたかった。一息つきたかった。 「小林秀雄編」「白洲正子編」「井筒俊彦編」、いまだ大御所が残っている。「河合隼雄編」はいま編集の最中である。  今回も、「Microsoft」一社の独占市場だった。結局 大樹の陰に、私も寄るしかなかった。負け戦だった。敗北感を味わった。 「プレーン」とは「 W ORD」における 「プレーン」な状態という意味であって、決して「テキストファイル」のことをいっているわけではない。  悠長な話である。    

TWEET「わずかばかりのうるおいを」

「ツキヨミの思想」 白洲正子『夕顔』新潮文庫 昔 小林秀雄さんに、「人間は何もしないで遊んでる時に育つんだよ」といわれてちょっと驚いたことがあるが、何もしないでいるというのは実は大変難しいことなのである。(234頁) 追伸:「彼岸で会いたい三人は?」との問いに、白洲正子は、西行、青山二郎、小林秀雄の名をあげています。白洲次郎とは、此岸で十分につき合ったからもういいわ、だそうです。 ◇ 以来、殺伐とした生活を送っています。少しうるおいました。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / も一つ 折々の記_08』: 〜白川静編〜」

◆ 2021/04/13、未使用の「お絵かき帳」状態から抜け出し、「Kindle」で読むことができるようになりました。「 頑是ない私の歌」です。 ぜひご覧くださいませ。長い道のりでした。 ◆ 懇切丁寧に教えていただき、原因は解ったのですが、いまだ非表示・白紙状態、「お絵かき帳」状態になっております。いましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / も一つ 折々の記_08」: 〜白川静編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  本編には、はじめて上梓した、「本多勇夫 / 折々の記_01」と重複している内容が相当数含まれています。試行編と思い、当初はたいした考えもなく、 ◇ TWEET「寒夜の明月」(2020/12/31 ) から、 ◇ TWEET「Kindle Direct Publishing」(2021/03/11 ) までの、総数 40のブログを載せました。その内に白川静先生についての叙述が少なからず含まれていた、ということです。  私にとって、「白川静」先生の書名のない連作は考えられず、今回、「も一つ」に乗じて、「『本多勇夫 / も一つ 折々の記_08』〜白川静編〜」を上梓させていただきました。  白川静は神々との交通の整理役に徹した。その旗振りはみごとだった。白川は意のままにペンを走らせた。長年月にわたる白川の、神々との交際が結実した。神々は、「字書三部作」の偉業をさぞお慶びになられていることだろう。  神々に愛された人、白川静はやはり大き過ぎる。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / まだまだ 折々の記_07』: 〜夏目漱石編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、非表示状態、白紙状態、「お絵かき帳」状態になっております。ただいま交渉中です。親身になっていただいております。いましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / まだまだ 折々の記_07」: 〜夏目漱石編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。 此の憂誰(た)れに語らん語るべき一人の君を失ひし憂 寺田寅彦「思ひ出(いづ)るまゝ」 十川信介 編『漱石追想』岩波文庫(128頁)

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / まだ 折々の記_06』: 〜大野晋編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / まだ 折々の記_06」: 〜大野晋編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  大学では日本文学を専修した。今回 橋本進吉先生の『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫 を三十年あまりぶりに再読した。  精緻な研究から成った成果である。「万葉仮名の用法を精査し」、そして「奈良時代の大和地方の言語は八十七の音節を区別する音韻体系を持つものであったことを発見」された。  大野晋がその後進に当たった。それは有無を言わせないものだった。  学習院では「大野ススメ」と呼ばれ、司馬遼太郎からは「先生は、抜き身の刀のような方ですね」といわれた大野と、「石橋を叩いても渡らない」といわれた質朴、朴訥な橋本との性格の相違は歴然としているが、 「日本語に美しい秩序があることを若い人たちに知らせたい」 という点においては一致していたといえよう。また大野は、 「おそらく先生は日本語の文法だけでなく、音韻の体系についても美しい秩序を見ておられたに相違ない。心の底ではそのことを先生は人々に語ろうとされたのではなかろうか」 とも述べている。  日本語は美しい。 追伸:気まぐれな Amazon に弄ばれて散々な毎日を送りました。還暦を迎えた今日を境に、つかず離れず、気の向くままにおつき合いすることにしました。もう Amazon のご機嫌とりはしません。  老い先は短く、 「我儘」に「気儘」に「自己本位」に生きます。もちろん「反省なぞしません」。   還暦を迎えた今日の、我が「 立志」です。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 又々 折々の記_05』: 〜司馬遼太郎編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / 又々 折々の記_05」: 〜司馬遼太郎編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  司馬遼太郎の「歴史小説」について書いた文章ではないことをはじめにお断りしておきます。  司馬遼太郎が是とした「すがすがしさ」。 「すがすがしさ」とは漢字で表記すれば「清々しさ」であって、換言すれば、司馬遼太郎は「美しくあること」をもって是とした、と私は解釈しています。「すがすがしくあること」、また「美しくあること」は、行住座臥、あらゆる方面についてまわる試金石です。明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を思い出します。  宗教を哲学として平易な言葉で語っていただけたことのありがたさ。歴史に生身の人間が息づいていることへの歓心。歴史を見はるかす目の確かさ、またその明晰さ。いましばらく、博覧強記にして言葉を自在にあやつる司馬遼太郎の史観に沈潜したいと考えております。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 又 折々の記_04』: 〜中井久夫編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / 又 折々の記_04」:〜中井久夫編〜」 を、 「Kindle Direct Publishing」 にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。 「ある教育の帰結」 中井久夫『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫 「高度成長は終わったが、そのバランスシートはまだ書かれていない。しかし、その中に損失として自然破壊とともに、青春期あるいは児童期の破壊を記してほしいものである。われわれは大量の緑とともに大量の青春を失ったと言えなくもない」 (68頁) ◆保護者の皆さま、また教育関係者の皆さま方、ぜひご覧になってください。 「看護できない患者はいない」 中井久夫『看護のための精神医学』 医学書院  看護という職業は,医者よりもはるかに古く,はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで,看護だけはできるのだ。  病気の診断がつく患者も,思うほど多くない。診断がつかないとき,医者は困る。あせる。あせらないほうがよいと思うが,やはり,あせる。しかし,看護は,診断をこえたものである。「病める人であること」「生きるうえで心身の不自由な人」──看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際,医者の治療行為はよく遅れるが,看護は病院に患者が足を踏み入れた,そのときからもう始まっている。 (2頁) 「精神科医・中井久夫が患者と家族に接する流儀は、絶望の淵にある人びとの治療への士気を高め、『希望』を処方することだった。  精神医学とは縁もゆかりもない一般読者である私が、「いまなぜ中井久夫なのか」といえば、それは、中井久夫先生の患者さんに対する眼差しであり、姿勢であって、患者さんご本人やそのご家族、また医師や看護師、さらには職員の方々への「言葉」です。お心配りであってご配慮です。文章であってその巧みな比喩表現です。  そして何よりも、中井久夫先生の著作を読ませていただいていると、気持ちが楽になります。  中井久夫先生はその著『こんなとき私はどうしてきたか』 医学書院  のインタビュー記事の中で、  「こんなこと言うでしょ?『若...

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 続々 折々の記_03』: 〜推薦図書編〜」

◆ 試行錯誤の末、無駄な時間を過ごすばかりで、あきらめました。 2021/04/21 に、 ◇「本多勇夫 / それ行け 折々の記_03」:〜推薦図書編〜 と改名し、「Kindle Direct Publishing」に上梓、購入しました。 前回同様、苦し紛れの命名でした。 ◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちくだい 。 つい今し方、 ◇「本多勇夫 / 続々 折々の記_03」:〜推薦図書編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 苦し紛れの命名、「〜推薦図書編〜」です。陸続(?)と棚に並ぶはずの端緒です。

TWEET「倉本先生に『倉本聰私論』 を送る」

倉本聰先生  当地では桜の花が見ごろを迎えておりますが、春遅き北の地とはいえ処処に、春の兆しが認められるころか、と拝察しております。  お体のお具合はいかがでしょうか、お加減のことばかりが気になっております。 P教授に何度となく背中を押され、幾度となく脅迫され、  平成三年(1991年)九月に提出した卒業論文、 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 を、今日 倉本先生にお送りしました。 2021/03/31 に到着の予定です。 三十年来の想いがかないました 。

TWEET「美は曇りなき眼が見つける」

  2021/04/09 に還暦を迎える。16日後に迫った。還暦の後先ということをしきりに考えている。焦燥感がある。準備の捗らないこともあり、おぼろげな行方しかみえないこともある。  今日の読書は、小林秀雄か井筒俊彦か迷った末に、井筒俊彦の著作を手にした。 そして、 ◇ 井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫 ◇ 井筒俊彦『意味の深みへ』岩波文庫 「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」 ◇ 井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス:東洋哲学のために』岩波文庫 「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」 の三作品のうちの、 ◇ 井筒俊彦『意味の深みへ』岩波文庫 「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」 を読んだ。  この世に生を享けたからには、この世の始源・淵源のことについて知りたいという欲求がある。そして、曇りなき眼で四囲を見つめたい。美は曇りなき眼が見つける。 観想体験もなく、観照体験もなく、つい井筒俊彦の著作群に手が伸びる。読前・読後では明らかに差異が認められる。  はじめに「 焦燥感がある 」と書いたが、いままで書き留めたブログを、いかに整理して、 「Kindle Direct Publishing」に載せようかということであって、他愛もないといえば、他愛もないことである。

春分の日に、小林秀雄「本居宣長之奥墓(おくつき)」です。

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◇ 本居宣長「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」 と題したブログを、 2016/04/03 に載せた。 ◇  小林秀雄『学生との対話』国民文化研究会・新潮社編 』(12-14頁) からの引用だった。    そして、  一年後の 2017/04/02 に再掲した。  季節、時節を問わず毎日のように閲覧があり、本ブログ( 22,8666件 )の首位の座( 1,3169件 )を占めている。それは 全閲覧数の  5.76% に当たる。小林秀雄が、本居宣長が、…。不可思議である。脅威である。 本居宣長「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」 小林秀雄『学生との対話』国民文化研究会・新潮社編 』  諸君は本居さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島(しきしま)の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(やまざくらばな)」という歌くらいはご存じでしょう。この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。先(ま)ず第一、山桜を諸君ご存じですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。花が咲いて、赤い葉が出ています。山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。これは明治になってから広まった桜の新種なので、なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が育てやすかったからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だった。小学校の校庭にはどこにも桜がありますが、まあ、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう俗悪な花が桜だと教えられて了(しま)うわけだ。宣長さんが「山桜花」と言ったって分からないわけです。  「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。これは日本人でなければ使えないような言葉と言...

TWEET「「サイタ サイタ サクラハ サイタカ?」

 2021/03/10 から、 「Kindle Direct Publishing」さんとのおつき合いをはじめ、ふり回されっぱなしで、今日で 9日になる。 曲がりなりにも、 2021/03/13 に、 ◇ 「本多勇夫 / 折々の記_01」 Kindle版 を、2021/03/16 には、 ◇  本多勇夫「倉本聰私論」: 〜『北の国から』のささやき 〜 Kindle版 を、 棚に並べていただいたが、上梓したという感慨も、しがない作家の仲間入りをしたという実感もまったくない。これが電子書籍出版時代の常態ということなのだろうか。  とにかく、疲弊している。困憊している。 消耗している。 「サイタ サイタ サクラハ マダカ?」  桜が散りしくまで、春眠を決めこむことにした。  夢現のままに、次作からの戦略を練ることにした。

「『本多勇夫 / 折々の記_01 Kindle版』_P教授による記念すべき第一冊目のお買い上げ」

今日の午前中、P教授に、 「本多勇夫 / 折々の記_01」 を購入していただきました。「Kindle Direct Publishing」の「レポート」を見ると、確かに記録に残っていました。記念すべき第一冊目のお買い上げです。お気づかいに感激しました。  午後には、P教授から、「カスタマーレビュー」が載っている、とのメールをいただきました。半信半疑でしたが、見ると、「パイプのけむり」さんの、「レビュー」が載っていていました。「星5つ」でした。もったいない内容の「レビュー」でした。 「パイプのけむり」さんの「カスタマーレビュー」を、繰り返し読ませていただいているうちに、小林秀雄が、 「文章を書く際には、七分は運動神経、三分が頭」 と書いているのを思い出しました。私には比率のことまでは分かリません が、文章を書く際には、敏捷性や平衡感覚が不可欠です。  還暦を目前にして、「運動神経」は無惨にも衰えるばかりで、如何せん、と思えば、小林秀雄には、 「年齢のせいに違いないが、年をとっても青年らしいとは、私には意味を成さぬ事とも思われる。」(「お月見」『人生について』中公文庫 177頁) と助け舟を出していただき、岡潔には、 「情操が深まれば境地が進む。これが東洋的文化で、漱石でも西田幾多郎(にしだきたろう)先生でも老年に至るほど境地がさえていた。」(『春宵十話』36頁) と救いの手を差し伸べていただきました。 團伊玖磨さんの「パイプのけむり」には、 第1巻「パイプのけむり」 第2巻「続パイプのけむり」 第3巻「続々パイプのけむり」 第4巻「又パイプのけむり」 第5巻「又々パイプのけむり」 第6巻「まだパイプのけむり」 第7巻「まだまだパイプのけむり」 第8巻「も一つパイプのけむり」 第9巻「なおパイプのけむり」 第10巻「なおなおパイプのけむり」 第11巻「重ねてパイプのけむり」 第12巻「重ね重ねパイプのけむり」 第13巻「なおかつパイプのけむり」 第14巻「またしてパイプのけむり」 第15巻「さてパイプのけむり」 第16巻「さてさてパイプのけむり」 第17巻「ひねもすパイプのけむり」 第18巻「よもすがらパイプのけむり」 第19巻「明けてもパイプのけむり」 第20巻「暮れてもパイプのけむり」 第21巻「晴れてもパイプのけむり」 第22巻「降ってもパイプのけむり」 第23巻...

TWEET「Kindle Direct Publishing_「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」_2/2

 前回(2021/03/13)と同様に、以下のメールが送られてきた。 「Kindle ダイレクト・パブリッシングをご利用いただきありがとうございます。 審査の結果、お客様は、以下の本の出版に関して必要な権利をお持ちでない可能性があるコンテンツが含まれていることがわかりました。お客様の作品の一部またはすべてのコンテンツは、インターネット上で無料公開されています。 「「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやき」」 本多勇夫 (AUTHOR)著 (後略)」   「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやき」 は、実際に私が書いた「卒業論文」なのかどうか疑わしいという意味なのか、インターネット上で無料で公開されている 「卒業論文」 を出版することはできないという意味なのか分からなかったので、タイトルを、 本多勇夫「倉本聰私論」 〜『北の国から』のささやき 〜 に余儀なく変更した。学生時代に考え抜いた末に つけたタイトルを、変更するのは忍びなかった。  いま「 Kindle Direct Publishing」のサイトでは「出版準備中」となっているが、Amazon では販売されていたので早速購入した。 本多勇夫「倉本聰私論」: 〜『北の国から』のささやき 〜  前回同様、最低限の 100円の定価をつけた。ロイヤリティも最低の 35% に設定した。一冊につき私の手元には、「35 × 0.9 = 32円」のロイヤリティ収入が入る仕組みになっている。 「主査の中島国彦先生」が、 「学籍番号 D50492-0」 が、 「住所 〒171 東京都豊島区雑司が谷2-17-6 星野荘1階2号室」が、 「電話番号 (03)-3980-9346」が、 そして 「学生時代」が、 懐かしい。 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 が、30年目にして日の目を見た。 出版記念日に なった。

TWEET「Kindle Direct Publishing_「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」1/2

「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 は、 平成三年(1991年)九月に提出した卒業論文である。  倉本聰さん宛に書いたお便りである。 二百字詰原稿用紙 599頁を、 二分冊にして、二部ずつ製本した。一部を倉本聰さんにお届けし ようと意気込んでいたが、失速 し、頓挫したままになっている。  再起を期して、 平成二九年(2017年)の四月から六月にかけて活字化したものの、今回は 失墜し、命からがらでいまにいたっている。  今回「Kindle Direct Publishing」さんから出版することによって、倉本聰さんのお目に留まることを願ってやみません。  いまとなっては 古びていて、かび臭い代物であるが、富良野市六郷の森で、五郎が、純が、蛍が息づいている。紛れもなく私の青春でした。若気のいたりでした。  なお目次の頁数は、卒業論文の頁数のままにしてありますのでご寛恕ください。 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 平成3年9月卒業論文 2冊のうち1号 (指導教員) 主査 中島国彦先生 審査済印 中島 (題目) 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 総頁数599頁 早稲田大学 第二文学部 日本文学専修 D50492-0 番 氏名 本多勇夫 現住所 〒171 豊島区雑司が谷2-17-6 星野荘1階2号室 TEL (03)-3980-9346 平成3年9月卒業論文 2冊のうち1号 目 次 1. はじめのはじめに 2. 註 3. はじめに 第一章 倉本聰のシナリオをさぐる 1. シナリオ一般の特徴 2. テレビ・シナリオの特徴 3. 間(ま)・沈黙の文学として 4. 主だった特徴あれこれ 5. 註 平成3年9月卒業論文 2冊のうち2号 第二章 倉本聰『北の国から』を探る 1. 恋 2. 別れ 3. 故郷(ふるさと) 4. 告白 5. 男であること 6. まとめ 7. 註 第三章 倉本聰 その底流にあるもの 1. 創る 2. 教育 3. その底流にあるもの 4. 註 おわりに

TWEET「Kindle Direct Publishing 処女出版記_4/4」

「Kindle ダイレクト・パブリッシング(KDP)」 とは、Amazon が無料で提供している、セルフパブリッシング(自費出版 / 個人出版)のことである。  今朝起き抜けに、「Kindle Direct Publishing」の「本棚」のサイトを見ると、「販売中」になっていた。半信半疑だった。  早速 Amazon で検索すると、 「本多勇夫 / 折々の記_01」  が見つかった。その後何の連絡もなくいきなりだった。「いきなり」、ついでに購入した。表紙をつけていないので見栄えがしないが、その見栄えの悪さが際立っている。  最低限の 100円の定価をつけた。ロイヤリティも最低の 35% に設定した。一冊につき私の手元には、「35 × 0.9 = 32円」のロイヤリティ収入が入る仕組みになっている。  次は、 平成三年九月に提出した卒業論文、「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」を出版することにしている。二百字詰原稿用紙で 599頁ある。  平成二九年の三月から六月にかけて活字化した。  古くてかび臭い代物である。 追伸:昨日の 15:17 に「Kindle Direct Publishing」さんから、 「Kindle ストアで販売が開始されました」 とのメールが届いていました。「迷惑メール」に紛れ込んでいました。

井筒俊彦「華厳の,ある形而上的存在風景_事事無礙」

「21 日本と仏教」 司馬遼太郎『この国のかたち 一』文春文庫   仏教は、飛鳥・奈良朝においては、国家統一のための原理だった。『華厳経(けごんぎょう)』は宗教的というより哲学的な経典で、その経典を好んだ聖武(しょうむ)天皇が、この経典に説かれている宇宙の象徴としての毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(大仏)を尊び、「国の銅(あかがね)を尽くし」て鋳造した。天平(てんぴょう)感宝元年(七四九年)、この天皇が東大寺大仏の前で「三宝(みほとけ)の奴(やっこ)」とみずからを規定して拝跪(はいき)したことほど、奈良朝における仏教と国家の関係を感動的に表現した光景はない。(245頁) 「東大寺と平城京 東大について」 土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫  当文庫には、 「盧舎那仏坐像頭部」 「 盧舎那仏坐像左手」 「盧舎那仏坐像蓮弁毛彫(るしゃなぶつれんべんけぼり)」 の、三葉の毘 盧舎那仏の写真が載っている。  土門拳が大仏さまの大きさを、「振り仰いで見ると、五丈三尺五寸という大きさの螺髪(らほつ)あたりに霞がたなびく感じに想いをめぐらされる」(94頁)と表現しているのはおもしろい。  相貌の凹凸によって 縁取られた細線は高邁な表情を映し出し、白毫(びゃくごう)、螺髪ともに明らかである。また、指は衆生に救いの手を差し伸べているかのようである。さらに、毘盧舎那仏が黄金に輝いていた当時の名残である蓮弁の毛彫には、息づまるような芬々とした「天平の匂いの凄さ」(95頁)が認められる。  「頭部」と「左手」を撮った二枚の写真 には、物を透き通しにする光が差しているかのような明るさがある。「華厳」が描く、光が十重二十重に交錯する世界(「光明遍照」)の中心に坐し、十方に光明を放つ毘盧舎那仏を 思わせる上品な写真に仕上がっている。  大仏さまにこれ以上の尊さを感じたことはなかった。部分が全体を凌ぐことがあることを知った。 一「理事無礙」から「事事無礙」へ 「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」 『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス 一九八五年 ― 一九八九年』 慶應義塾大学出版会  この講演のテーマとして私が選びました「事事無礙」は、華厳的存在論の極致、壮麗な華厳哲学の全体系がここに窮まるといわれる重要な概念であります。(8頁)  この引用箇所で、(新プラトン主義の...

TWEET「Kindle Direct Publishing 処女出版記_3/4」

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「Kindle ダイレクト・パブリッシング(KDP)」 とは、Amazon が無料で提供している、セルフパブリッシング(自費出版 / 個人出版)のことである。  今朝早朝に原稿を送った。すると、 「 Kindle ダイレクト・パブリッシングをご利用いただきありがとうございます。 審査の結果、お客様は、以下の本の出版に関して必要な権利をお持ちでない可能性があるコンテンツが含まれていることがわかりました。お客様の作品の一部またはすべてのコンテンツは、インターネット上で無料公開されています。 「塾・ひのくるま / 折々の記」 本多勇夫 (AUTHOR)著 (後略)」 との返信が送られてきた。 「塾・ひのくるま / 折々の記」は、実際に本人が書いているブログなのかどうか疑わしいという意味なのか、インターネット上で無料で公開されているブログを出版することはできないという意味なのか分からなかったので、タイトルを「本多勇夫 / 折々の記」に改名して再送しておいた。 「内容紹介」には、 「季節のうつろいの、過ぎゆくときの、折々にふれてしるした記です。私の気ままな雑記帖です。  2015/08/04 から書きはじめたブログが 、5年と半年あまりになります。  5歳児の作文です。  投稿数が 2689件、閲覧数が 22,8060件になりました。  「思えば遠く来たもんだ」(中原中也「頑是ない歌」)といった感慨があります。  「思えば遠く来たもんだ / 十二の冬のあの夕べ / 港の空に鳴り響いた / 汽笛(きてき)の湯気(ゆげ)は今いずこ」  いずれもいずれも、「2689件」の「頑是ない私の歌」です。 今回は、 ◇ TWEET「寒夜の明月」(2020/12/31 ) から、 ◇ TWEET「Kindle Direct Publishing」(2021/03/11 ) までの、総数 40のブログを載せました。 小林秀雄、白洲正子、井筒俊彦、司馬遼太郎、白川静、梅原猛、土門拳 等々と、顔ぶれは多彩です。 どうかお手に取って、お読みください。」 「 Kindle ダイレクト・パブリッシング」さんのご寛恕を願うばかりです。

TWEET「Kindle Direct Publishing 処女出版記_2/4」

「Kindle ダイレクト・パブリッシング(KDP)」 とは、Amazon が無料で提供している、セルフパブリッシング(自費出版 / 個人出版)のことである。 ◇ TWEET「寒夜の明月」( 2020/12/31  ) から、 ◇ TWEET「Kindle Direct Publishing」( 2021/03/11   ) まで、総数 40の、一つひとつのブログを「Pages」に貼り付け、形を整えるのに途方もない時間を要した。 事務的な作業は淡々と機械的にするにかぎるので、強行した。早朝までかかり、 生活時間帯がすっかりくるってしまった。  「.pages  のファイル」を 「.epub のファイル」に変換するのは簡単であった 。そして、「Kindle Previewer 3」をダウンロードし遊んだ。  総文字数が「4,6247」文字、400字詰め原稿用紙にして115枚と250字足らず、引用ばかりが目立つブログとはいえ、この数字にはさすがに眼を疑った。しかし、 一つのブログ当たりの平均の文字数が「1156.175」文字、 400字詰め原稿用紙にして2枚と356字あまりという数字をみる とすっかり平静をとりもどした。いかに倦まず撓まず書くか、質より圧倒的に量ということをはっきり自覚した。  今日の進捗状況は如何に、祈るような気持ちでいる。 以下の、 「電書ログ / 簡単すぎる!Kindle出版の方法(Amazonで電子書籍を出版する方法)」 さんのサイトを参考にさせていただいている。 感謝している。