TWEET「『徒然草』_信頼に足る確かな「たしなみ」の書」

 学術的なことは詳らかではないが、私は『徒然草』を「たしなみ」についての教養の書であると一括りに括っている。立居振る舞い然り、美意識然り、教訓また無常感然り、話題は広範におよぶが、それらは皆、信頼に足る確かな「たしなみ」の範疇での出来事である。
全段再読したが、やはり、
は面白く、また、
(以上、「Es Discovery」さんのサイトより
の掉尾は、
「ここに到りては、貧富分(わ)く所なし。究竟(くきやう)は理即(りそく)に等し。大欲は無欲に似たり。」
◆「究竟は理即に等し。」
(「悟りの境地である究竟は、迷いの境地である理即に等しい。」)
との文で結ばれていて、禅語を聞くかのようである。

一昨日の夕方、
◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫
を注文した。一八0段までを、
◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫
で読み、そして届き次第、以降を、
◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫
で読んだ。
 対照すれば、やはり差異はあり、面白く読んだ。そして、西江先生のことを思った。
              
「† 翻訳とは「演奏」である」
西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社
「言語は互いに「置き換えられる」という話と「翻訳」の話とは大いに違うんです。
 翻訳というのは、ある言語で表現されたことを、意味の上でも形の上でも原文に近い形を保ちながら、ほかの言語に置き換えることです。その置き換えは、制約の中での一種の「演奏」なんです。つまり、本来の文章をいかに訳すかは、翻訳者の腕によるわけです。」(106-108頁)

「翻訳」は「演奏」である。創造的な行為によって、楽譜は音に昇華される。楽譜から逸脱することは許されないが、あとは自由である。自分の裁量で動くことができる。
「翻訳」を「現代語訳」に置き換えて読んでみれば、とそんなことを思いつつ読み継いでいった。

◇ 島内裕子「徒然草の達成と現代」
兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 489頁)
は名文です。遠く、私のおよぶところではありません。ぜひ書店で立ち読みしてください、とはいえ、田舎の書店でのこと、書棚には並んでいませんでしたが。
 次は和歌です。