井筒俊彦「華厳の,ある形而上的存在風景_事事無礙」

「21 日本と仏教」
司馬遼太郎『この国のかたち 一』文春文庫 
 仏教は、飛鳥・奈良朝においては、国家統一のための原理だった。『華厳経(けごんぎょう)』は宗教的というより哲学的な経典で、その経典を好んだ聖武(しょうむ)天皇が、この経典に説かれている宇宙の象徴としての毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(大仏)を尊び、「国の銅(あかがね)を尽くし」て鋳造した。天平(てんぴょう)感宝元年(七四九年)、この天皇が東大寺大仏の前で「三宝(みほとけ)の奴(やっこ)」とみずからを規定して拝跪(はいき)したことほど、奈良朝における仏教と国家の関係を感動的に表現した光景はない。(245頁)

「東大寺と平城京 東大について」
土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫
 当文庫には、
「盧舎那仏坐像頭部」
盧舎那仏坐像左手」
「盧舎那仏坐像蓮弁毛彫(るしゃなぶつれんべんけぼり)」
の、三葉の毘盧舎那仏の写真が載っている。
 土門拳が大仏さまの大きさを、「振り仰いで見ると、五丈三尺五寸という大きさの螺髪(らほつ)あたりに霞がたなびく感じに想いをめぐらされる」(94頁)と表現しているのはおもしろい。
 相貌の凹凸によって縁取られた細線は高邁な表情を映し出し、白毫(びゃくごう)、螺髪ともに明らかである。また、指は衆生に救いの手を差し伸べているかのようである。さらに、毘盧舎那仏が黄金に輝いていた当時の名残である蓮弁の毛彫には、息づまるような芬々とした「天平の匂いの凄さ」(95頁)が認められる。
 「頭部」と「左手」を撮った二枚の写真には、物を透き通しにする光が差しているかのような明るさがある。「華厳」が描く、光が十重二十重に交錯する世界(「光明遍照」)の中心に坐し、十方に光明を放つ毘盧舎那仏を思わせる上品な写真に仕上がっている。
 大仏さまにこれ以上の尊さを感じたことはなかった。部分が全体を凌ぐことがあることを知った。


一「理事無礙」から「事事無礙」へ
「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」
『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス 一九八五年 ― 一九八九年』 慶應義塾大学出版会
 この講演のテーマとして私が選びました「事事無礙」は、華厳的存在論の極致、壮麗な華厳哲学の全体系がここに窮まるといわれる重要な概念であります。(8頁)

 この引用箇所で、(新プラトン主義の始祖)プロティノスは深い瞑想によって拓かれた非日常的意識の地平に突如として現れてくる世にも不思議な(と常識的人間の目には映る)存在風景を描き出します。「あちらでは…」と彼は語り始めます。「あちら」、ここからずっと遠いむこうの方 ー 勿論、空間的にではなく、次元的に、日常的経験の世界から遥かに遠い彼方、つまり、瞑想意識の深みに開示される存在の非日常的秩序、ということです。「あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮(さえぎ)るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。ひとつ一つのものが、どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら)、しかもすべてが互いに他のなかに映現している」
 すべてのものが「透明」となり「光」と化して、経験的世界における事物特有の相互障碍性を失い、互いに他に滲透し、互いに他を映し合いながら、相入相即し渾融する。重々無尽に交錯する光に荘厳されて、燦爛と現成する世界。これこそ、まさに華厳の世界、海印三昧と呼ばれる禅定意識に現われる華厳蔵世界海そのものの光景ではないでしょうか。とにかく、華厳仏教の見地からすれば、今ここに引用したプロティノスの言葉は、「事事無礙」的事態の、正確な、そして生き生きとした描写にほかならないのでありまして、もしこの一節が『華厳経』のなかに嵌めこまれてあったとしても、少しも奇異の感を抱かせないことであろうと思います。(9-10頁)

 『華厳経』が、徹頭徹尾、「光」のメタファに満たされていることは、皆様ご承知のとおりですが、先刻引用した『エンネアデス』の一節も、終始一貫して「光」のメタファの織り出すテクストでした。華厳もプロティノスも、ともに存在を「光」として形象する、あるいは、「光」として転義的に体験する。「光」のメタファとはいっても、ここでは、たんに表現形式上の飾りとしての比喩ではありません。観想意識の地平で生起する実在転義そのものとしての比喩なのです。質料的不透明性を脱却して完全に相互滲透的となった存在は、「光」的たらざるを得ない。そのような様態における存在は、おのずから、実在転義的に「光」となって現われる。だからこそ、二つのものがある時、「光が光を貫く」ということが、そこに起るのです。プロティノスの語る「光燦々」とは、このような意味で実在的に転義し、メタファ化した存在世界の形姿にほかなりません。(11-12頁)


 何度接しても、『華厳』の世界は美しい。初読から幾年月かを経て、聖武天皇や東大寺の毘盧舎那仏について知った。以来、私の聖武天皇観、大仏さまと向き合う姿勢が変わった。
 ただごとではなかった。
 いましきりに東大寺に、また東大寺ミュージアムに行きたいと思う。東大寺ミュージアムでは、日光・月光菩薩に、また戒壇堂四天王立像を参拝したいと思う。
 あくせくと毎日を過ごし、世界は美しいことも覚えず、無知蒙昧とは恥入るばかりである。