TWEET「一人がいい、二人ではもう窮屈である」

 いま古社寺を巡りたいとしきりに思う。しかし、緊急事態宣言の下、県境(けんきょう)を跨いでの移動、不要不急の外出の自粛を心がけなければならないことくらいは、私にも理解できる。自由を制限された生活とはなんと窮屈なことだろう。
 近江路・京都・奈良大和路、または、伊勢神宮・室生寺・大野寺・本居宣長記念館・本居宣長之奥墓(おくつき)・熊野古道、いつもの道行がいい。いつもの旅程で構わないが、「三徳山三佛寺 投入堂」を知り、これほどの美と対面してしまったいま、参拝しないわけにはゆくまい。
 私は、2021/02/08 のブログ、土門拳「三徳山 三佛寺 投入堂」に、
「投入堂には、疑うことを知らぬ、重力に身を任せきっているもののもつ美しさがある。これは信仰である。投入堂は信仰をもつ者の静けさをたたえている。一つの疑念がそれを崩壊へと導く。
 投入堂は平安な一体の仏像である。「三仏寺に拠る平安時代の初期修験者集団」が、「懸造の高架建築」を建立することにおいてのみ「偏執狂的に憑かれていた」、意味を見いだしていた、とは到底考えられないことである。彼らは建築屋ではなく、行を行ずる者たちであった。一個の「懸造の高架建築」と一体の仏像は彼らにとって等価なものであった。投入堂は彼らの祈りだった。
 土門拳の写真をよく見るのは難しい。一枚の絵をよく見るのと同様の難しさがある」
と書いた。
 サイトを見ると、
「現在、参拝登山が可能です」
と書かれているが、
「投入堂へ参拝をされる際には、必ず二人以上、また両手が使えて運動のしやすい格好でおこしください。」
との断り書きがあり、足枷となっている。同伴者が見当たらない。「一人で心ゆくまでがいい、二人ではもう窮屈である」とは、理由にならないのだろうか。