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「拝復 P教授様_暴発しました!!」

「50代後半は、人生の剪定が必要ですね。これをやっておかないと、 60代以降は、行き当たりばったりの時間の浪費で終わるでしょう。 書斎で、何気なく「小林秀雄最後の日々」『考える人』を手に取って読み返しています。 河上徹太郎との最後の対談が納められているやつです。 塾長から、小林秀雄関連のCD等を頂いてきました。 これらは、人生の剪定作業にどれほど役立っているか。 「考古学者の大家になると、文献もほとんど掘り尽くしている」という 言葉は、啓示的です。 小林秀雄たちの言葉で「P」でき るなんて、年を取るのは素晴らしいですね!」 「『 考古学者の大家になると、文献もほとんど掘り尽くしている』という 言葉は、啓示的です。」 暴発しました。 貴重な言葉の贈りものに感謝しております。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

倉本聰「笠智衆演ずる松吉は、実に『いい顔』をしている」

  『北の国から ’83 冬』において笠智衆演ずる松吉は、実に「いい顔」をしている。すっきりした顔をしている。  「人は死に臨み、それまで身につけた余分なものを捨てさるがゆえに、老いて呆ける。呆けは死への準備である。生きるなかで余計なものをためこんだ人ほど呆けやすい」との話を聴いたことがある。  人が捨てきれない大切なものとはなんなのであろうか。余計なものを捨てさった後に、なお残る確かなものといったいなんなのであろうか。  捨て去り、捨て去りした挙げ句、少々呆けてくにへ帰ってきた松吉。稚魚の時代を過ごすうちに染まった懐かしい匂いを求めて、川を遡るサケのように、帰巣本能のままに帰郷した松吉。ふるさとは当人にとって彼岸に近いものなのかもしれない。故郷への郷愁は、彼岸への郷愁、松吉の帰郷は、死地を求めての帰郷なのかもしれない。  倉本聰は、アイヌ民族の思想に少なからぬ関心をよせている。  「父親が老化して、その言葉がわかりにくくなったとき、知能検査の言語能力のスケールに照らし合わせて測定する科学の知に対して、父親もそろそろ神の国の世界に行くことになって、われわれの理解し難い神の言葉で話すようになったという神話の知に頼る方が、はるかに自分と父親とのかかわりを濃くしてくれるのではないだろうか。事実、アイヌではまだまだ老人が尊重されているのだが、そこでは老人のわけの解らぬもの言いを『神用語』という。『あの世への旅立ちの準備で、神に近くなってきたからそうなると考えるのである。』 (28) 」。 (29)   「科学の知は、自分以外のものを対象化してみることによって成立しているので、それによって他を見るとき、自と他とのつながりは失われ勝ちとなる。自分を世界のなかに位置づけ、世界と自分とのかかわりのなかで、ものを見るためには、われわれは神話の知を必要とする。ギリシャ人たちは太陽がまるい、高熱の物体であることを知っていた。にもかかわらず、太陽を四輪馬車に乗った英雄像として語るのは、人と太陽とのかかわり、それを基とする宇宙観を語るときに、そのようなイメージに頼ることがもっとも適切であるから、そうするのである。」 (30)   以上は、臨床心理学者の河合隼雄の言である。  倉本聰がこのアイヌ神話を知っていたかどうかは定かではないが、このアイヌ神話と、「

「テレビドラマの限界_倉本聰『りんりんと』,山田太一『早春スケッチブック』」

「じつにコマーシャルの存在こそ、テレビ技法に最大かつ最も包括的な制限を示すものである。テレビは本質的には広告メディアであって、演芸のそれではない。(中略)この恐るべき制限に加えて存在するのが、視聴者は軽いドラマ、恋する若く美しい男女に関する明るい喜劇だけを見たがっているという広範不恋(変?)の幻想である。」 (25)  つぎにテレビドラマの限界という視点に立って、テレビ・シナリオの特徴をさぐってみたいと思う。  倉本聰に『りんりんと』 (26) と題する作品がある。一九七四年に北海道放送によって制作されたドラマである。北海道の老人ホームに入居する老母を、息子が送っていく旅を描いた作品であり、「珠玉と呼んでいい短編小説の趣き」をもった「ホン」である。老いた母親の、息子への、あまりにも哀しい問いかけを「ヘソ」にもった作品である。  さわ「信ちゃんーー」  信 「(見る)なあに?」 さわ、ーー夏みかんの袋をむいている。 海鳴り。  さわ「(むきつつ、さり気なく)母さん本当にーー。生きてていいの?」 ドキンと母を見て凍りついた信。 ーー。 (27)   倉本聰自身の母親が、生前実際に口にしたことばでもある。  「かつて僕自身の母が死んだ直後、『りんりんと』というシリアスな形で老人問題を書いたことをその頃僕は反省していた。茶の間に入ってくるテレビの中で、ああいう形のストレートな物云いはどうもよくないと思い始めていた。テレビはやはり娯楽であるべきだし、娯楽の中でこそ云いたいことをさり気なく出すのが筋だと思った。」 (28)  「これはシビアなストーリーである。  恐らくテレビドラマとして、これがぎりぎりの限界だろう。  僕自身、ここまでシリアスな作品は、テレビではあまり書いてはいけないと思っている。」 (29)   いっぽう、山田太一には、『早春スケッチブック』 (30) と題された「ホン」がある。一九八三年にフジテレビによって制作されたドラマである。  「いつかは自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう」  ニーチェの辛辣なことばを「ヘソ」にもった作品である。「ストレートな物云い」の作品である。「シビアなストーリー」の「ホン」である。  

「どろ亀さん」こと高橋延清さん「倉さんはばかだから」

 「一九八一年十一月、『週間朝日』で、倉本さんと対談した。『森の博物誌ーー自然、動物、人ーー 』というテーマだった。その中からの抜粋・・・。」    高橋 「ところで、倉本さんのいる文化村は、ぼくがデザインしたんだが、本当は、文化人というのは好かんのだよ。だけど、倉本さんはいわゆる文化人じゃないですよ。とにかくあそこでがんばっている。要領が悪いけれども、本物を追っているんだ」   倉本 「それは光栄です」   倉本 「自分は四十何年間、東京のめしを食っちゃって、能力もなくなっているし、いろんなことが退化しているんだけれども、少しずつ自分でやっていると、少しずつ何かが出てくるんですね。」   高橋 「倉さんはばかだから、あそこへ行って苦労してやっている。だけど、そうでなければならんよ。一つの作品を作るなら、いいかげんでつくってはいかんと同じようにね」  対談のしめくくりが、乱暴な言葉になっていたのに、どろ亀さん、びっくりした。実は、対談前に一杯ひっかけてゆき、対談中もやっていたので酔いのなせる業でもあった。現代の代表作家に、こんな失礼なことをいって、すまなかったと思った。  やがてできあがった『北の国から』は、すばらしいものだった。数々のシーンの強烈な印象は、どろ亀の目の中に心の中に、今も残っている。  やっぱり、倉さんにはばかなところがあるから、いい作品ができたんだと、今も思っている。 (58)   「どろ亀さん」こと、高橋延清さんの書かれた文章である。  倉本聰は、「ばか」でもあったのである。  元  東大演習林長・ 東大名誉教授である、かのどろ亀さんのお墨つきであるから、間違いのないところである。  倉本聰は、「稚気(ばか)」である。「ばか」でもあった。そして、どこかぬけているのである。放たれつつあるのである。 (註) (58) 高橋延清(通称・どろ亀さん 元 東大演習林長)「倉さんはばかだから」 ( 北海学園北海道から編集室 『倉本聰研究』理論社) 18-19頁。 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 「第三章 3. その底流にあるもの」(19/21)より。

倉本聰「人と感動を共有できること」

 「共に笑いころげ、肩叩き合って叫び合い、見つめ合ったまま互いの目の中にあふれてくる涙を確認し合う、この人生の最高の行為。  人と感動を共有できること。」(倉本聰 『北の人名録』新潮社、247頁)  いつまでも感動できる自分でありたいと思う。  どこまでも素直な自分でありたいと思う。 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 「おわりに」(21/21)より。

倉本聰「井上のじっちゃんは時々哲学的言辞を吐く」

 チャバが東の横綱ならば西の横綱は、「井上のじっちゃん」である。先にご登場いただいたあのじっちゃんである。  「井上みどりさんは造園業である。  みどりという名から想像してはいけない。七十余年の土との闘いが赤銅色の肌にしみこんだ世にもきたなげなじいさんである。いつもMボタンをしめ忘れ、ズボンの前はダラリと開いている。しかし歌人である。粋人である。そうしてチャバをそのまま老けさせたような子供のような純粋な目をしている。 (中略)  じいさんは時々哲学的言辞を吐く。  『人は裏切るからやだ。植物がいい?・』  『盆栽。ありゃあんた見とったんじゃ育たん?・ 睨まにゃダメだ?・ 毎日睨むんだ?・ そうすると相手も緊張してよく育つ』  『話しかけるのも一つの手だよ。植物、ちゃんときくよ。人の話を』  『アインシュタインのアイタイセイゲンリから学んだ結果、人には絶対の勝者なンておらん?・ 敗者もおらん?・ だからオラいつも落着いておるの。ヒッヒッヒッ』  四十数年の僕の人生の中で、こんな哲学を云うものはいなかった。僕は今次第にじいさんに感化され哲学的人間に変りつつある。」 (47) 「森はダムだよ、判るか先生(倉本聰をさす)。それも一つや二つ分でない。何十何百のダムを合わせたその位のどでかい水がめだわさ。しかもその水がめは神様が管理しとる」、「神様の管理は凄いもンだよ。近頃はダムもコンピューターつうんかい。プラグラムたら何たら偉そうに云っとるが、神様のプログラムにゃ太刀打ちできねえ。太刀打ちできねえのに偉そうにまァ、水がめ作れ、村つぶせ、それで一方で別の役人がもっと開発だ、森の木ィ伐れ。森伐ることが神様の水がめをよ、ぶちこわしてることにちっとも気づいてねぇ。心臓けずっといて血が出んて騒いどる。判るか?」 (48)   井上のじっちゃんの「吐く」「哲学的言辞」の数々は活字からの借りものではない。それらは自分の肌に直接ふれたもの、自らの実感としてあるもの、自身の内からわき出てきたものである。それらには「七十余年」の人生に裏打ちされた持ち重りのする重みがある。松のことを松から習った確かさがある。竹のことを竹から習った明らかさがある。  井上のじっちゃんは、自分を超えた大いなるもの、大いなるものにつながった自分をはっきりと見据えて

倉本聰「稚気(バカ)こそ貴重なのである」

 倉本聰は「バカ」に「稚気」という漢字を当てる。  昭和五六年十月二六日、「空知川イカダ下り大会」でのことであった。  「河原は既に花園のようだった。  いい齢をした男たちが笑い、そうして夢中で夫々のイカダを組み、女たちは興奮し、そしてはしゃいでいた。  田中邦衛が僕に囁いた。 『先生、これはすごいことだね。こんだけの大人がこんだけ夢中にさ、マジに稚気(バカ)やるべく集るっていうのはさ、ーー先生、富良野って素敵なとこだね』  そうなのだ。  稚気(バカ)こそ貴重なのである。  大の大人たちが一文にもならない、かなりバカバカしいこの祭典に子供のように目を輝かし何日も準備して大真面目に参加する。  すてきではないか。  わくわくするじゃないか。  何発かの花火が空に舞い上り、数百の稚気(バカ)たちの熱い興奮が一挙にぐうんとエスカレートした時、稚気(バカ)を代表するわれらのチャバ(茶畑和昭氏)のスタートを告げるアナウンスがあり、そうしてイカダたちは空知川に流れた。  ダムを放流した結構な流れに、富良野の夏は一気にフィーバーした。」 (42)   他の箇所での表記はすべて「馬鹿」であり、「稚気(バカ)」は、この本(『北の人名録』)のこの箇所にだけみられる特有の“漢字づかい”である。しかし、倉本聰の書く「馬鹿」には、いずれも“稚気”の意味合いが色濃く反映されており、「馬鹿」は「稚気」と表記されても一向にさしつかえのないものばかりである。  「稚気(バカ)」は、倉本聰を解く際のキーワードである。  倉本聰は「稚気(バカ)」が好きである。そして、軽率にも「稚気(バカ)」に感じ入り、感動さえ覚えてしまうのである。  「宴が果て宿まで帰るべく、一同が小雨の中へ出て行くと、トシオがキャッと声を立てた。  森の中の闇の太い木の枝から、等身大の人形が下っていた。  それはざんばらの首を吊り、白いかたびらを着た一件であって恨めし気に目を剥き風に揺れていた。  『コレデスヨコレデスヨ。これだからイヤですよ。あんちゃん(倉本聰のことである)これチャバがやったンでしょう』  先刻闇の中に見た二つの影を僕は思い出し思わず吹出した。風呂から上って寝るとこだったチャバは僕らの宴に花を添えるべく、雨の中をわざわざ夫人同伴

「石橋冠は、倉本聰に『十二歳の少年』と『八十歳の老人』を感じるという」

    石橋冠 (日本テレビ・ディレクター) は、倉本聰に「十二歳の少年」と「八十歳の老人」を感じるという。  「ふだん、倉本さんと雑談したり、ばったり出くわして、遊んだりする時、ぼくは十二歳の少年を感じますね。時々、駄々っ子というか、やんちゃというか、未成熟というか、はらはらするくらいの少年の感性のようなもの。一緒にいると自分も知らないうちに、少年時代に戻ってしまうみたいな瞬間がありますよね。それくらい純粋で素直で未来に慄(おのの)いているというか、少年の魂さながらの倉本さんに出くわす時があります。もうひとつギョッとするのは、今度はもう八十歳なのかなと、すべてを見通した達観した老人のような眼を感ずる時がある。驚くべきは、その中間を全く感じないこと。少年か老人か、そのどっちかとつき合っているのではないかと思うのですよ。  あの瑞々しいロマンチシズムというのは、結局少年と老人の対話なのではないか。少し難しい言い方なんだけれど、少年の心と老人の達観がせめぎ合っているから、倉本ロマンチシズムというのが出てくるのじゃないかと思います。そう思うと、彼の中にある奔放とも思える少年の魂と、すべて見通してしまった老人の達観というか、諦観というか、それの入り混じっている優しいロマンチシズム、あれは倉本さんの持ち味なんだなあと思うし、そのあたりを倉本さんは、無意識にさまよっているのではないか。ーーと思ったりすることがありますね。」 (55)  「十二歳の少年」と「八十歳の老人」。ともに透明度の、また純度の高い存在である。  俗気にあたる前の、どこまでも澄んだ目をした「十二歳の少年」と、俗塵に紛れ大いなる凡俗として暮らす、優しいほほえみを目もとに、また口もとにたたえた「八十歳の老人」ーー「本来なる自己」の声の届きやすい地平に立つ人たちである。「自己が自己を自己する」ことの、無為にして自然なる、自然(じねん)にして法爾なる生き方の容易な立場にある人たちである。 (註) (55) 石橋冠(日本テレビ・ディレクター)、杉田成道(フジテレビ・ディレクター)「(対話)倉本脚本との格闘〔撮影の現場から〕」( 北海学園北海道から編集室 『倉本聰研究』理論社)171頁。 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 「第三章 3 . その底流にあるもの 」(19/21

倉本聰「『諦める』とは『明らめる』ということ」

 「諦める」とは「明らめる」ということであり、それは「諦観」へとまっすぐにつながっていく。  「それとね、これもいえるんですよ。天災にたいしてねーーあきらめちゃうですよ。何しろ自然がきびしいですからね。あきらめることになれちゃっとるですよ。だからーーたとえば水害にやられたとき、ーー今年やられましたよ北海道さんざん、ーーめちゃめちゃにやられてもうダメッちゅうときーーテレビ局来てマイクさし出されたら、みんなヘラヘラ笑っとるですよ。だめだァって、ヘラヘラ笑っとるですよ。あきらめちゃうですよ神様のしたことには。そういう習慣がついちゃっとるですよ。だからねーー」。 (39)   「北海道の人々は自然の中で暮しているから、ある天災が起きたときあきらめる術(すべ)を知っている。神の所業に、運命に対し、甘受すること、あきらめること、それを習慣として身につけている。だから。もしそれが天災でなく、仮りに人災であったとしても、運命として呑みこむ、事態を甘受する。  都会ではどうか。そうはいくまい。  都会は、都会のマスコミたちは、あらゆる事態に責任者を求める。犯人を求める。犯人を決めねばどうしても気がすまない。犯人を制定し、その名を掲(かか)げ、徹底的に彼をしごきあげ、彼を社会から葬り去るまで叩きに叩いて潰(つぶ)さなねば気がすまぬ。  殺伐陰惨たる村八分の儀式。  正義のマスコミはそれを完遂する。  都会では今やその如く見える。だが村はちがう。村はむしろちがう。  村には運命を甘受する智恵、度量、風習、胆力が生きている。」 (40)  倉本聰のいう「諦める」とは、大いなるものに身を任せるということである。ものごとに執着しないということ。拘泥しないということ。これはこれでよし、とすること。それはそれでよし、とすること。過去を引きずらないということ。未来を引きこまないということ。今に留まるということ。今に丁寧に生きるということ。今を感じるということ。  倉本聰は「神」といい、「仏」とは決していわない。しかし、私には、倉本聰の「神」は、どうしても「仏」と響くのである。  「人は仏心の中に生まれ   仏心の中に生き   仏心の中に息を引きとる」 (41)   円覚寺の朝比奈宗源老師が口癖のようにいわれたことばを、紀野一義が書き留めた

倉本聰『ニングル』理論社_「知らん権利」と「放っとく義務」

 ニングルは「身の丈凡(およ)そ一五センチ」。「平均寿命二七0年」。北海道は「富良野市六郷の背後に拡がる」「樹海(東大演習林)のどこか奥深く、人間社会から隔絶された場所」の住むという実在する「小人(こびと)」である。  『ニングル』は、ニングルについて書かれた本である。手記である。「倉本聰の’黙示録’」である。  ニングルの生き方、思想、哲学は、倉本聰の内なるものとみごとに符合し、響き合い、こだまし合った。倉本聰は、ニングルとの触れ合いを通して、自らの内なるものをはっきりと自覚した。『北の国から』の底に、力強くも静かに流れていたものが、『ニングル』において再確認され、さらなる発展をとげた。  テレビ・シナリオという、ある種洗練された形で小出しに提出されたものが、『ニングル』においては、荒々しい原始の姿そのままに息づいている。  『ニングル』は、倉本聰の思想の原点が記された作品である。  ニングルは神様の近くで生きている。暮らしのテンポを「森の時計に合わせ」、自然とともに生きている。「あらゆる文明、あらゆる理屈、ーー混沌、複雑、詭弁、欲望。文化と云われる一切のものから純粋に隔離され」て生きている。「知らん権利」と「放っとく義務」とを「生活(の)信奉」として生きている。  「『知らん権利』と『放っとく義務』。  それは現在の日本人社会とは将(まさ)に対極にある思想ではないか。  人間はその逆『知る権利』をふりかざし、ひっそり生きる者の神聖な領域へまでずかずか土足でふみこんでくる。人間は放っとく義務など持てない。自分に関わりない他人のことへまで、放っておけなくてしゃしゃり出てくる。ヒューマニズムとか正義の為とか適当な言葉を探し出し掲げて。」 (35)   「先生。(ニングルの長(おさ)の、倉本聰への呼びかけである。以下、ニングルの長の語ったことばである)  人間が社会を作るとき、権利と義務という言葉を口にする。  あれはそもそも人間の言葉でない。  あれはそもそも神様の言葉だ。  神様が自然をお創りになったとき、自然が永続して行く為に、権利と義務という言葉を作られた。  あらゆる動物、あらゆる植物が、自然の中で生きて行く為に、それぞれの権利と義務を持たされた。  今猶(なお)みんなそれを守っています。

倉本聰「自然保護という聞き馴れた言葉が今何となく怖ろしい」

 「自然を保護するという言葉の中には、人間を強者、自然を弱者と見なしてしまっている根本的錯覚と傲慢の姿勢がのぞいているように思えてならぬ。昔アイヌは自然を神とした。人はいつから『神』を『保護』する偉い存在に成り上がったのだろうか。百歩譲って自然を神ではなく、一つの人格と考えてみようか。僕はその時巨人を連想する。無限の純粋さと正義と力。それらを内にしっかりと秘めながら無口で不器用でじっと耐えているそういう男の姿を想像する。僕はたとえばそういう男に、『保護』という言葉はとても使えぬ。彼に対して僕の想うのは畏怖であり尊敬であり従属でありそして憧れだ。僕は彼から愛されたい。愛されて初めて僕らの生はその片隅に許されるのではあるまいか。まず、そのことをもう一度考えたい。そしてそこから更めて始めたい。巨人に健康でいてもらうことをーー」 (33) (註) (33) 倉本聰「自然保護という聞き馴れた言葉が今何となく怖ろしい」(「朝日新聞」1983年11月10日、夕刊)。 「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 「第三章 3 . その底流にあるもの 」(19/21)より。

『倉本聰私論』_「2. 教育」(18/21)

「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」 「第三章 倉本聰その底流にあるもの」 「2. 教育」(18/21)  「学んだことの唯一の証(あかし)は変わることである」とは、林竹二の口癖であった。   “北の国”は、純や螢を変えた。“北の国”での暮らしにより、二人は日常から学んだ。  二人は生きる営みを学んだ。『農の情景』に接し、食べることを学んだ。創ることを学び、創ることで学んだ。二人は自分のもついろいろな顔を知った。風を感じ、四季の移ろいを知った。自然とともにあることを知り、自然とともにあることの大切さを知った。二人は開かれた生活のなかで、人の生きる姿を見つめた。幾多の出会いと別れを経験し、そして死を見つめた。さまざまな出来事に立ち会うなかで感動をおぼえ、悲しみを味わった。なににもまして、生きることにつながった学びがいい。歩きながらの学びがいい。  “北の国”は、純や螢にとって、かけがえのない教育の場であった。この地において二人は、すべての人、もの、ことを糧に、「都会の生活に見落した何かを確実に身につけて」いった。    むかし、子どもたちは        夢のなる樹だったよ    すり傷だらけで        いつも神様の隣りにいた    むかし、子どもたちは        ねずみ花火だったよ    どこにはじけてとんでくか        だれにもわからなかった (22)  都会での生活のなかで、あわただしい時間を過ごす子どもたち。輝きを失った子どもたち。極度に管理され、人間らしさに蓋をきせられた子どもたち。上手に目隠しをされ、生活のにおいから遠ざけられた子どもたち。子どもらしく生きることを拒まれ、大人しく生きることを強要された子どもたち。  子どもたちによかれと思い、信じ、行っていることの一つ一つを、今一度原点に返って、探ってみる必要がある。  分校の教諭は凉子先生だった。 「教師として私。ーーよくありませんよ」、「二十三だし。健康だし。女だし。だから。ーー人格者であるわけないしーー」。 (23)   凉子先生は、のっけからこんなことをいってのける先生である。  「教師のくせに。ーー本当はぜんぜん自信ないのね」、「自信ないんですよ。教師として私」。 (24)