『倉本聰私論』_「2. 教育」(18/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第三章 倉本聰その底流にあるもの」

「2. 教育」(18/21)
 「学んだことの唯一の証(あかし)は変わることである」とは、林竹二の口癖であった。 
 “北の国”は、純や螢を変えた。“北の国”での暮らしにより、二人は日常から学んだ。
 二人は生きる営みを学んだ。『農の情景』に接し、食べることを学んだ。創ることを学び、創ることで学んだ。二人は自分のもついろいろな顔を知った。風を感じ、四季の移ろいを知った。自然とともにあることを知り、自然とともにあることの大切さを知った。二人は開かれた生活のなかで、人の生きる姿を見つめた。幾多の出会いと別れを経験し、そして死を見つめた。さまざまな出来事に立ち会うなかで感動をおぼえ、悲しみを味わった。なににもまして、生きることにつながった学びがいい。歩きながらの学びがいい。
 “北の国”は、純や螢にとって、かけがえのない教育の場であった。この地において二人は、すべての人、もの、ことを糧に、「都会の生活に見落した何かを確実に身につけて」いった。

   むかし、子どもたちは
       夢のなる樹だったよ
   すり傷だらけで
       いつも神様の隣りにいた
   むかし、子どもたちは
       ねずみ花火だったよ
   どこにはじけてとんでくか
       だれにもわからなかった (22)

 都会での生活のなかで、あわただしい時間を過ごす子どもたち。輝きを失った子どもたち。極度に管理され、人間らしさに蓋をきせられた子どもたち。上手に目隠しをされ、生活のにおいから遠ざけられた子どもたち。子どもらしく生きることを拒まれ、大人しく生きることを強要された子どもたち。
 子どもたちによかれと思い、信じ、行っていることの一つ一つを、今一度原点に返って、探ってみる必要がある。
 分校の教諭は凉子先生だった。
「教師として私。ーーよくありませんよ」、「二十三だし。健康だし。女だし。だから。ーー人格者であるわけないしーー」。(23)
 凉子先生は、のっけからこんなことをいってのける先生である。
 「教師のくせに。ーー本当はぜんぜん自信ないのね」、「自信ないんですよ。教師として私」。(24)
 「先生」と呼ばれることにくすぐったさを感じ、自分を静かにみつめ、問う、凉子先生。時代の要求とはどこかはずれた凉子先生。はずれた先生は、はずれた子どもたち同様教育現場からおっぽり出されるのが昨今のご時世である。凉子先生とて例外ではなかった。
 子どもたちとの対話を通してともに考えながら、一つの問題を深く掘り下げてゆく授業はだめな授業ですか。子どもたちに押しつけることなく自分の考えを伝え、個々の意見を尊重する先生はいけない先生ですか。生活と密着した話題を教材にして、子どもたちに「生きることを問う」授業は許されない授業ですか。たとえテスト中であろうとも、解らないことはお互いに教えあうことを認める先生、解るまでつき合う先生、全員に百点をつけ評価しない(最高の評価をあたえる)先生は、いただけない先生ですか。笑いがあり、驚きや感動があり、思ったことを自由に口にすることができる教室は、否定されるべき教室ですか。困っている子どもを陰で支え、そっと見守る先生は、まかりならない先生ですか。休日に子どもたちと連れ立って、あるいは山菜採りに行き、あるいは川に行き、子どもたちと親しくする先生は「かんばしくない」先生ですか。
 倉本聰は、理想の教師像を凉子先生に託したのである。分校を現代の学校教育の最後の砦にしたのである。が、倉本聰は、またその同じ手でその分校を廃校に追いやり、また凉子先生を UFO に乗せて連れ去ってもしまったのである。
 このことのもつ意味は深長である。
 「『北の国から』は富良野を反文明のユートピアと見立てた大人のためのメルヘンではないか。そうした意味で、純が宇宙人と遭遇するエピソード(凉子先生が UFO に乗って立ち去ってしまった一件)の夢幻的なイメージも肯定できるというものだ。」(25)
とは、鬼頭麟兵の言である。が、はたしてそうなのであろうか。私にはとてもそうとは思えない。「純が宇宙人と遭遇する」との表現にも首を傾げたくなる(純が実際に「見た」ものは「巨大な葉巻型宇宙船の底」であり、「宇宙人」とは「遭遇」していない)のだが、このエピソードを単に「大人のためのメルヘン」であるととらえるのは、あまりにも短絡的にすぎると思う。ひいては作品のもつ“重大さ”さえも損ないかねない、少々やりきれないとらえ方である。『北の国から』は緻密な計算にもとづいて、テレビドラマとしては異例の時間と労力をかけて制作された作品であり、そこに登場するほとんどの「エピソード」は、実生活に取材したものである。よって、我々にこたえ、重みのあるもの仕立てられているのである。
 「僕は UFO を見た男を知っている。しかし世間はその男を信じない。
 僕は幽霊を見た女を知っている。しかし世間はその女を信じない。
 科学は己れを超えてしまうものを殆んど傲慢に笑って否定する。かつて自らの先駆者であるところのガリレオ・ガリレイやコペルニクスが被害にあったその同じ否定を、今や加害者として他所者に叩きつける。」(26)
  倉本聰における一連の UFO 事件とは身近な問題であり、切迫した問題なのである。そして、倉本聰は、鋭い切っ先を我々の胸元に突きつけてくるのである。
 科学は至上のものですか。“事実”こそが“真実”であり、動かしようのないものではないのですか。“信じる”とは、すべてをそのままに、ただ受け容れること、そこに一つの疑念もさしはさまないことではないのですか。他人(ひと)をこき下ろすことにより面白がり、平気で他人の神経を逆なでするテレビ番組は非難されるべきものではないのですか。あなた方はそんなテレビに毒されいるのではないのですか。
 倉本聰は一連の UFO 事件にことよせて、現代を生きる我々に警鐘を鳴らしているのである。それは急を告げる早鐘であって、決して「メルヘン」の世界で語られる類の、心に深く沁みわたり、内でこだまし、人を陶然とさせる類の鐘の音ではないのである。
 「かつて彼(ある中学校の教師・F氏)のいた中学の同僚で、ある晩 UFO を偶然目撃し、それを生徒に語ったところ地元の新聞に大々的に載り、それが教師として軽率な行為だと仲間たちから吊し上げられ遂に去って行ったものがいたと云う。」(27)
 『ニングル』のなかにある文である。倉本聰がF氏から直接聴いた話である。
 倉本聰は、この話を下じきに凉子先生の UFO 事件を書いたのではないか。そう考えたくなるほど、両者には類似点が認められる。しかし、両者は、時間的に前後している。
 しかし、この問題に関して「大人のためのメルヘン」である、と結論づけるのは早急に過ぎる。
 倉本聰は一九七六年二月八日に放送された「幻の町」(倉本聰『倉本聰コレクション8 幻の町』理論社 一九八三年 所収)のシナリオにおいて、はじめて「幻想」の世界を描いた。

倉本 ただ橋本(忍)さん、野田(高梧)さん、小津(安二郎)さんというのは、いわば、ぼく自身がシナリオの技術を習得するために必要な先生だったわけですよ。それでね、ぼく自身は個人的には加藤道夫の世界というのが、めちゃくちゃに好きなわけですよ。リアリティの中に幻想が持ち込まれてくるということが、一方でぼくの好きなテーマとしてあったわけですよ。ところがもう一方で、「りんりんと」が一つの節目なんですけれど、老人問題というのが、ぼくの中にあるわけですよ。自分がかかえていたテーマとして、ずっと長いことあったわけですね。老人問題というのはね、ぼくにとってはすごく救いようのない、結論の出ないテーマなのです。じゃ、結論の出ないテーマの結論というのは何か、というとね。自分としては現世の中に結論が出ないから、幻影の世界の中に結論を求めざるをえなかった、という、一つのテーマ的にいうと、そういうことがあったのですね。それと、加藤道夫にぼくがずっとひかれてきた、それをものすごく大事にしてたという部分みたいなものがある、たぶん未消化のまんま。それがブワーッとあふれ出ちゃった、というふうにしてつくられたのが「幻の町」という作品だ、と思うのです。だからぼくにとっては、どこが悪いとか、じゃどこを直せとか、そういうものじゃなくなっているわけです。
白井 あなたにとっては、もう技術の問題じゃないわけですね?
倉本 技術じゃないんですよ。だから逆に、これを感受性で受けとめてくれる人だけが受けとめてくれりゃいい、というところまでいっちゃうんですね、こういうのというのは。
白井 なるほど。それだけに「幻の町」には、新しい次元への倉本ドラマの一つの始まり、みたいなものが感じられますね、確かに。じゃあ、それから後のこのテーマは、倉本聰テレビドラマ集、第二の巻頭で、やることにして、今回はこれくらいにしましょう。(笑)」(28)

 倉本聰における「幻想」の世界とは、「現世」においては「救いようのない、結論のでないテーマ」に終止符をうつ場である。
 『北の国から』に即していえば、倉本聰の目に映った現代の学校教育は、「救いようのない」ほど、解決策のみつからないほど、病んでいた。学校教育と向きあい、疲弊し悄然とした健気な凉子先生を救う手立ては、凉子先生を「幻想」の世界へと導くこと以外には方法がなかったのである。倉本聰の作家としてのせめてもの良心が、凉子先生を「幻想」の世界へと連れ去ったのである。
 凉子先生が姿を消して以降、学校教育の風景もまた姿を消した。
 『北の国から 後編』・第二四話には、純の元 受持の教師・小川が登場するが、小川は令子のうわべだけをほめる。勉強のことばかりを口にし、内面に目のとどかない、他人(ひと)の気持ちなどわかるべくもない先生である。東京で教師を自称する先生たちへの、倉本聰の批判の矢面に立たされた代表としての先生である。
 また、『北の国から ’87 初恋』において、五郎が相談をもちかけた先生は、終始口をつぐみ、沈黙している。名前のない、顔をもたない先生である。
 以降、学校教育の風景はなく、また教育に携わる者の登場は、以上の二か所にかぎられる。これは、倉本聰が現代の学校教育に絶望し、見切りをつけた結果だと思う。
 死と再生。死なき再生はない。絶望のないところに希望はない。
 一九八三年四月、倉本聰は自らの手で富良野塾を開いた。
 「営利を目的としない」、「義務の教育とは対極の場」にある私塾である。「法律の枠外」でしかできないと思われる「“大切なこと”」を「のびのび」とやる、まったくの私塾である。
 「実はここ何年間か、漠然と考えてきたことがあった。
 僕がこの地に来て七年間に得たさまざまな感動、カルチュアショック。何よりも都会の生活のように本やマスコミから与えられる第二次第三次情報でなく体験から獲得する第一次情報。その情報にめぐり逢う感動。知識がそれ程価値のないことでそれより智恵こそが大事だと知ること。更に何よりも政治や社会や人智のつくったプラグラムでない神のプラグラムに動かされて生きること。それら諸々(もろもろ)を人に伝えたい。若者たちに分けてやりたいそんな考えが」(29) 形をとった塾である。
 私はここに現代の学校教育への挑戦とでもいうべき、倉本聰の強い姿勢を感じる。
 『谷は眠っていた』は、創成期の富良野塾、また、そこに生きた若者たちを描いた記録である。現代の学校教育に欠落した宝物がいっぱいつまった「教育書」である。昨今巷にあふれかえっている、教育ブームとやらに軽はずみにものった、まことしやかな書籍とは比すべくもない、感動のいっぱいにつまった、血の通った「教育実践書」である。
以下は、読後、私の印象に強く残った、『谷は眠っていた』からの引用である。
 「これらの歳月、僕はこの谷の中で、無数の若者を見たような気がする。いや、若者というより人間と云ってしまうべきかもしれない。
 谷はまさしく僕に対して、そうした無数の教材をくれた。
 この谷で得たことの最も多かったのは、多分僕自身ではなかったか。」(30) 
 「塾の四年をふりかえってみて自分が唯一誇れることがある。それは、これまで関わった六十余人の若者全てを、まちがいなく自分が愛せたことである。
 その愛が今も続いていることを、自分の為に臆面もなく誇りたい。
 この道(シナリオライターや俳優への道)を諦めろと宣告したもの、卒塾を待たずに去って行ったもの、去らせてしまったもの全てを含めて、この谷に住んだもの全ての若者を愛せたことに僕は感動する。
 だから卒塾の季節は耐えかねた。
 世の教師たちは毎年このような、激しい辛さに耐えるのかと思ったら、到底教師にはなれないと思った。」(31)
   倉本聰の教育者としての顔がここにある。
 もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
 子どもたちと過ごす毎日のなかで「得たことの最も多かった」自分を感じていたい。
 もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
 子どもたちのすべてを「自分が愛せた」ことを「臆面もなく」自分に「誇れる教師」でありたい。
 もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
 子どもたちとの別れの季節は「激しい辛さに耐えかね」ひとり涙したい。
 「臆面もなく」、恥ずかし気もなく、年齢(とし)甲斐もなく、私をその気にさせる本である。その気になる本である。