倉本聰「だから卒塾の季節は耐えかねた」
死と再生。死なき再生はない。絶望のないところに希望はない。
一九八三年四月、倉本聰は自らの手で富良野塾を開いた。
「営利を目的としない」、「義務の教育とは対極の場」にある私塾である。「法律の枠外」でしかできないと思われる「“大切なこと”」を「のびのび」とやるまったくの私塾である。
「実はここ何年間か、漠然と考えてきたことがあった。
僕がこの地に来て七年間に得たさまざまな感動、カルチュアショック。何よりも都会の生活のように本やマスコミから与えられる第二次第三次情報でなく体験から獲得する第一次情報。その情報にめぐり逢う感動。知識がそれ程価値のないことでそれより智恵こそが大事だと知ること。更に何よりも政治や社会や人智のつくったプラグラムでない神のプラグラムに動かされて生きること。それら諸々(もろもろ)を人に伝えたい。若者たちに分けてやりたいそんな考えが」(29) 形をとった塾である。
私はここに現代の学校教育への挑戦とでもいうべき、倉本聰の強い姿勢を感じる。
倉本聰『谷は眠っていた』理論社 は、創成期の富良野塾、また、そこに生きた若者たちを描いた記録である。現代の学校教育に欠落した宝物のがいっぱいつまった「教育書」である。昨今巷にあふれかえっている、教育ブームとやらに軽はずみにものっかった、まことしやかな書籍とは比すべくもない、感動のいっぱいにつまった、血の通った「教育実践書」である。
以下は、読後、私の印象に強く残った、『谷は眠っていた』からの引用である。
「これらの歳月、僕はこの谷の中で、無数の若者を見たような気がする。いや、若者というより人間と云ってしまうべきかもしれない。
谷はまさしく僕に対して、そうした無数の教材をくれた。
この谷で得たことの最も多かったのは、多分僕自身ではなかったか。」(30)
「塾の四年をふりかえってみて自分が唯一誇れることがある。それは、これまで関わった六十余人の若者全てを、まちがいなく自分が愛せたことである。
その愛が今も続いていることを、自分の為に臆面もなく誇りたい。
この道(シナリオライターや俳優への道)を諦めろと宣告したもの、卒塾を待たずに去って行ったもの、去らせてしまったもの全てを含めて、この谷に住んだもの全ての若者を愛せたことに僕は感動する。
だから卒塾の季節は耐えかねた。
世の教師たちは毎年このような、激しい辛さに耐えるのかと思ったら、到底教師にはなれないと思った。」(31)
倉本聰の教育者としての顔がここにある。
もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
子どもたちと過ごす毎日のなかで「得たことの最も多かった」自分を感じていたい。
もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
子どもたちのすべてを「自分が愛せた」ことを「臆面もなく」自分に「誇れる教師」でありたい。
もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
子どもたちとの別れの季節は「激しい辛さに耐えかね」、ひとり涙したい。
「臆面もなく」、恥ずかし気もなく、年齢(とし)甲斐もなく、私をその気にさせる本である。その気になる本である。
(註)
(29) 倉本聰『冬眠の森ーー北の人名録 PART2ーー』新潮社(143頁)。
(30) 倉本、前掲『谷は眠っていた』(297頁)。
(31) 倉本、前掲『谷は眠っていた』(299-300頁)。
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第三章 2. 教育」(18/21)より。