『倉本聰私論』_「5. 男であること」(14/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第二章 倉本聰『北の国から』をさぐる」

「5. 男であること」(14/21)
  倉本聰は“その筋の方々”が好きである。
 「世の中には色んな人がいる。色んな人がいるがやっぱりどこかでみんな共通した人間である訳で。
 父親参観日に出かけるやくざ。リポビタンD のオンザロックを飲む組長。そういうはんぱな人間たちの意外な人間味をふと見せられるとどうしてもいけません。僕の血は騒ぐ。つい感動し好きになりたくなる。
 しかしやっぱり、やくざはやくざ、好きになってはいけない人でありーー。」(39)
 「やくざ」を生業(なりわい)となさっている方々は、「男であること」へのこだわり、見栄が人一倍強い方たちである。が、悲しいかな、「やっぱりどこかでみんな共通した人間であるわけで」、ふとした折に、ふとしたことで、「意外な人間味」を露呈してしまうのである。やくざな方々とは、男の哀しさを一身にうけたような方たちである。

石橋  倉本さんはどちらかというと、男を書く作家ですね。
杉田  そうですね。レイモンド・チャンドラーに「強くなければ男じゃない。優しくなければ、生きていく資格がない」という言葉がありますが、男に対する憧憬みたいなものが強い。
石橋  男は強くて優しくなければならない。そして、女に対してそうでなければならない。見栄なんだな。そういう少年のような見栄が倉本さんの脚本のすみずみまで、漲っているものね。決してヒーローじゃないが、強くて、優しさを求めて懸命に努力している人間を、最終的には描いていると思いますが。(40)

 確かに倉本聰は「男を書く作家」である。競争社会で生きる男たちではなく、絶えず共存の道をさぐっている男たちを書く。
 「男には大きく分けて『二つの生き方』があるのかもしれない。たえず人を意識し、ライバルに打ち勝とうとする生き方であり、上昇志向の強いタイプである。そして、もう一つの生き方が、他人よりは自分に厳格に対峙し、自分自身の生きる姿勢を常に問い詰めるタイプである。倉本さんのそれは、後者ではないだろうか。」(41)
 「つまり大局を考えすぎる日本人というものがいて、インテリというものがいて、大局に対して小局しか考えない姿勢の人間たちがいるときに、どっちがいい悪いっていうよりも、どっちが好きかっていわれると、ぼく(倉本聰)は小局のほうが好きなわけです。」(42)
 倉本聰は、明らかに後者のタイプの男を好んで描く。

 五郎「雪ちゃん」
 雪子「ーー」
 五郎「同情ってやつは」
 雪子「同情じゃないわ」
 五郎「同情ってやつは男にはーーつらいんだよ」
 雪子「ーー」
  間。
 五郎「つらいんだよそういうのは、ーー男の場合」
 雪子「ーー」
  間。(43)

 五郎は、ことあるごとに“男であること”に気づかいする。
 あるときは五郎は男であり、男でありうる。が、あるときには五郎の男は空回りし、男であろうとするがゆえに、大きな哀しみを抱えこんでしまう。それは、人間であることに由来する哀しみというよりも、むしろ男であろうとすることに端を発する男の哀しみである。

 離婚の原因とてそうであった。
 また、『北の国から ’87 初恋』における純との確執とてそうである。
 純は父(五郎)を思うがゆえに、中学校卒業の進路について、五郎にだけは言い出せないでいた。周りの者には相談をもちかけることができても、父にだけはどうしても相談できずにいた。そんな純の気持ちを察しつつも、五郎は、
 「お前にききたいことがある」、「ーー東京に行くのか」、「行くンだろ来春中学をでたら」、「行きたければ行けばいい。反対なンかしない」、「ただーー」、「オレはーー」、「ーー」、「オレは心のせまい男だから、お前のやり方にひっかかってる」、「どうしてオレに何の相談せず、ほかのみんなには相談するンだ」、「なぜ父さんにだけ相談がない」、「オレはそんなに頼りにならんか」。(44)
 「困る?ーーどうして」、「どうしてオレが困る」、「それは金のことをいっているのか」、「はっきりしよう。父さんはそんなに頼りないのか」。(45)
 「何?」、「(つかむ)何が情けない」、「オレがどうしてなさけない!」、「ちょっと待て」(46)
 五郎の頭には、いったん走り出した男をコントロールする術はない。つい五郎は男を通してしまうのである。執拗なまでに男にしがみついてしまうのである。男であることに片肘を張ってしまうのである。そして、必ずや、このような「つまらぬ激情」の後には他人(ひと)を傷つけたことによって、自らもが傷つき、自己嫌悪にかられることになる。ひどく落ち込むことになるのである。
 男であることへのその痛ましいまでのとらわれ、ーーこれは五郎にかぎらず、倉本聰の手になる男たちが、倉本聰によって吹きこまれた宿業とでもいうべきものなのである。
 「男にはだれだって、何といわれたって、戦わなきゃならん時がある」
 雪子の帰りを毎日「ボソッ」と待つ草太と、中川との「盛大なる」なぐり合い。
 祖父(杵次)の悪口を言いふらされたと信じて疑わない正吉と純との「勝負」。
 父(五郎)を「ぶじょくされた」とき、正吉の「アソコ」をつぶれよとばかりに握る純。
 五郎と雪子の仲を云々する男に「けもののようにつかみかかりはりとばす」草太。
 つららとの一件で草太を「いきなり思いっきりひっぱたく」辰巳。
 泥のついたピン札を盗ったアカマンの「胸ぐら」をつかみ締めあげる純。
 バールを手にした純の水谷への「猛然」たる「突進」。
 男たちは男を傷つけられたとき、男らしくない行為を目の当たりにしたとき、単純にして明快、実に歯切れのよい解決策をとるのである。
 が、その反面、男たちは弱い者に対しては、とてつもない優しさを発揮する。
 つらい立場にたたされた凉子先生をかばう男たち。杵次の遺体に自分のジャンパーをそっとかけてやる和夫。雪子のやり切れない気持ちをまるごとを受けとめてやる五郎。五郎のみどりへのいたわり心くばり等々ーー男たちはみごとなまでにさり気なく、すんなりと弱者に対して優しさを投げかけるのである。
 そして、何よりも何にもまして、男同士のわかり合いは感動的である。
 五郎の困惑の極み、ここぞという時分には、必ずや顔をのぞかせ、陰で五郎をそっと支える清吉。五郎と純、螢。また、令子との間にたちみごとな櫂さばきをみせる和夫。また、五郎と杵次との、五郎と草太との、五郎と辰巳との、五郎と松吉との、わかり合い等々、それは“北の国”の男たちの組み合わせ通り分だけある。
 「俺の出しゃばる話じゃないだろう」(48)
 彼ら男たちの距離は近からず、かといって遠からず、彼ら男たちは心にくいまでのバランス感覚で、実にみごとな距離をとりつつ、相手の男を傷つけないように、相手の男に障らないように、と心がけつつ、さり気なくお互いがお互いに手をさしのべあうのである。彼らは男であることの哀しさを分かちあえる男たちなのである。
 純はこのような環境のなかで男を呼吸していった。純にとって最高の教師は五郎であった。最大の教師は草太であった。
 狐の一件でのことである。
 「オイ、純」、「二度とオラにむかって、そういうハンカクサイこというんでない」、「いいか」、「男だらぜったいにいうな」、「いったら兄ちゃんただですまさん」、「どこの世界にてめえの子どもをーー分けへだてするような親がいる」、「男のくせにあまったれるな」、「お前のおやじはお前のそういうーーあまっちょろいところをたたき直したくてーー一生けん命冷たくしてるンだ」、「お前のおやじは不器用な男だからーーそういうふうに冷たくみえるンだ」、「勉強ができるならそれくらいわかれコノッ」。(49)
 また、五郎とこごみとの恋のことであった。
 「お前もつまンねえこと考えるな」、「お前のおやじだってもともと男だぜ。男はときどきさびしくなるンだ。いくつになったってそれァ同じだ」、「それくらいお前もすこしわかってやれ」(50)
 そして、卒業後の進路の件でのことであった。
 「(ポツリ)おやじさんの気持、オラにはわかるぞ」、「男は見栄で生きてるもンだ」、「いくつになったって男は見栄だ」、「お前が、おじさんが困ると思って相談しなかった気持ァわかる。したっけおじさんのいちばんつらいのは、そういうふうに見られるってことだ」、「息子のお前にいたわられるってことだ」、「男はだれだっていたわれりゃ傷つく」、「それが男だ」、「本当の男だ」、「そこをよく考えろ(顔起こす)」(51)
 草太の純に対する男への教育は無骨に、手荒くほどこされれる。そして、そこに垣間みられる男の照れ。
 「本当は反論したかったンだけどーーぼくは反論することをやめた。/ なぜかというとお兄ちゃんのいい方がとってもやさしくぼくにはきこえたので」、「いい方は乱暴でもお兄ちゃんという人はーーとても男っぽくぼくには思われ」。(52)
 男による、男のための、男への教育であるがゆえに、効くのである。
  男をいっぱいに深呼吸した純は、しだいしだいに男への理解を示しはじめた。そして、’89年の帰郷の際に純は、もっとも身近な存在である父の姿に男としての「すごさ」をみいだした。
 「男っていうより、おやじがすごいンだ」、「今度そのことが、ーー少しだけわかった」。(53)
 「あの頃、ぼくら二人をつれて、母さんと別れて富良野へ来た父さん。あの時父さんは、もう四十を過ぎてたはずだ」、「あの頃ぼくはまだ幼くて、父さんの気持なンて何もわからず」、「ヘラヘラだらしない父さんのことをいつも心で軽べつしてたわけで。だけどーー父さん。今、少しわかるよ。今少し父さんがわかりはじめてきました。ーー今まで考えたこともなかったけど、あの頃父さんが耐えていた苦しみ。父さんの悲しみ。父さんの痛み。父さんの強さ。あの頃の父さんの男としてのすごさが、初めて今だんだんわかってきたわけで」、「世間は父さんをただヘラヘラした、百姓のおやじと思うかもしれないけどーー今のぼくには到底かなわない、まぶしいばかりの存在になりつつあり」、「父さんーーぼく今初めて父さんを」。(54)
 お手本はお隣にあったのである。
「女の涙は請求書っぽいが大の男の涙は人の心を摶(う)つ」。(55)
 日頃「男であること」を引っさげて、精一杯つっぱって生きている男たちではあるが、それにも自ずからなる限界がある。「男」が破綻をきたすことがある。男としての誇りをかなぐり捨て、人前に弱みをさらけだし、悲しみをさらさざるをえない刻が、突如男たちに襲いかかることがある。その最たるものは悲嘆の涙にくれる男たちの姿である。それは日頃男への強いこだわりをもつ男たちの涙だけにいっそう哀しく響き、我々の「心を摶つ」。
 わけても草太はよく泣く。その涙のおおよそはつららと結びついたものである。
 それも恋、とはいえ、恋におぼれ、一人の女性をもて遊ぶ結果を招じてしまった草太。一人の女性のその後に影をおとしめ、少なからぬ影響をおよぼしてしまった草太。そんな草太は、つららの傷の深さを思いやり「どうしようもないわたし」に涙するのであった。拭おうにも拭いきれない罪の意識にかられての自罰の涙を流すのであった。
 『北の国から  ’87 初恋』における、つららの結婚を、またその後の倖せな結婚生活を聞きおよんだ草太のその眼にゆらめく涙は印象的である。それは喜びとも安堵ともさびしさともつかないもろもろの感情が涙腺をまっすぐに駆け上り、草太の眼(まなこ)に湛えられたものである。純粋にして無垢、澄みきった許されの涙である。草太の人となりの凝縮された涙である。
 「人はそれぞれ悲しいときにーー悲しさを表す表し方がちがう」、「人前で平気で泣けるものもいればーー、涙を見せたくない、そういうものもいる」(56)
 草太は「人前で平気で泣ける」男である。しかし、五郎は、令子の葬式の日、悲しみの絶頂期にしてなお、エプロンをかけ台所で忙しなく立ち働いてしまう男なのである。忙しなく立ち働く五郎のその後ろ姿はあまりにも哀しい。それは周囲の冷たい視線に耐えてまで、忙しなく立ち働くことに唯一救いを求める、あまりにも不器用な男の抜き差しならない姿である。令子とはいまや離婚した仲であること、令子の愛人・吉野との絡みともあいまって、五郎はこの期におよんでなお、すなおに感情を表出できないままでいる。
 そして、その晩。
 ひとり五郎は令子の「遺骨」と向きあい、「肩をまるめ、声を殺して慟哭」するのであった。周囲への気がねから、それまで抑え続けてきた悲しみのほとばしるままに、悲しみに我と我が身を任せるのであった。我々の予想をはるかに超えた五郎の悲しみ。また、これほどまでに抑圧せざるをえなかった五郎の男であることの哀しみ。これらは相乗積の形をとって我々に襲いかかり、たちまちのうちに我々をのみこんでしまうーー五郎の悲しさ、哀しみは、それほどまでにすさまじいものなのである。

 五郎「純」
 純 「ーー」
 五郎「まいってるか」
  純。
  ーー首をふる。
 純 「(小さく)だいじょうぶです」
 五郎「そうか」
 純 「ーー」
 五郎「強いな」
 純 「ーー」
 五郎「父さんはまいってる」
  純。
  ーー父を見る。
  すぐ目をそらす。
 五郎「男が弱音をなーー」
 純 「ーー」
 五郎「はくもンじゃないがな」
 純 「ーー」
 五郎「しかしなーー」
 純 「ーー」
 五郎「まいってる」
 純 「ーー」
 五郎「いまだけだ」
 純 「ーー」
 五郎「許せ」
  純。
  間。
 五郎「つらいなァ」
 純 「ーー」
 五郎「え? 純」
 純 「ーー」
 五郎「(かすれる)つらいなァ」
  純。
  間。(57)
 
 令子の葬式から帰ってきた純と螢を迎えたその夜、廃屋内でのことである。五郎が純に「弱音を吐く」のははじめてのことである。が、この場面に螢はいない。そして、その直後、廃屋の外からの「螢の声」に対し、五郎は、

  五郎。
  ーーとつぜん、明るさをつくって、
 五郎「どうしたンだ!」
 螢の声「しッ。キツネが来てる!それがーー足が変!!ーーねえ!三本しかない!
     いつかトラばさみにやられたやつみたい!」
 五郎「ちょっと待て!餌さがす!」
  五郎、あわてて戸棚をさがす。(58)

 五郎は、螢にはつらい顔は見せられないのである。それは螢が幼いからではなく、小さいながらも女だからである。息子には弱音を吐けても、娘にはまいった顔はみせられないのである。五郎は純を一人前の男として認め、純に男同士の「もののわかり」を期待したのである。息子を前にこれまでひた隠しに隠してきた弱い自分をさらけ出したこと、ここに五郎の中年が兆す、老いがみてとれる。
 「僕は男が好きである。特に中年が好きである。何といっても中年男には、青年の活気を粧いつつ、その実内心肉体の衰えを察知しているーー裏返していうなら、察知しているのに必死にかくしてつっぱっているーー男の原点たる愛らしさがある。
 この作品〈『ばんえい』(59)〉のモチーフは、父が息子に体力的に敗北する日ーーということである。同じこのモチーフを僕はこの前年 NHKBK の『ぜんまい仕掛けの柱時計』(60) でも書き、別の作品でも扱った。これからもまだまだ厚かましく扱うつもりでいる。」(61)
 令子の死を期に中年の哀愁、哀感が五郎を抱きすくめる。
 『北の国から ’84 夏』における五郎の「卑屈で、力なく」、「しぼんでしまった」姿に純はいらだち、嘆く。
 「それは、こっちに移ってきた当時の、あのたくましい父さんとはちがっていた」、「父さんどうしたの」、「あの頃の父さんはどうしたの」、「水道や電気を誰にもたのまず、たった一人でやりとげた父さん。/ あの頃の父さんはどこに行ったの。/ 僕ら父さんを尊敬してたのに」(62)
 五郎は寄せる年波に押し切られた格好で、疲れきった男の「中年」を露呈する。そして、それは、『北の国から ’87 初恋』において決定的となるのであった。
 五郎と純との子ばなれ、親ばなれの季節である。
 ここには思春期を迎えた純と五郎との確執、また五郎の「中年」のみごとな描出がある。 
 五郎は「受持の先生」に向かって、
 「先生、オラにはよくわからんのです」、「あいつだら、本当に近頃ァオラが、話しようとしてもスッと避けるし」、「進学のことだって何度もいっとるです。都会とちがって高校へ行くときが将来まで決める大事なときだぞって」、「したっけあいつは何も答えんです」、「先生、どうも情けない話だが、オラにはあいつが最近どうも、わからんようになってきとるンです」。(63)
 また、和夫に向かって、
 「中ちゃんあいつは最近オレとは、ほとんどまともにしゃべろうとしないンだ」、「正直オレにはわからないンだ」「あいつが本心何考えてるのか」(64)
 そして、純は純で、
 「傷ついていた。父さんにいわれたことにじゃない。」、「怒鳴っても父さんが怒らないからだ」、「最近父さんはぼくに遠慮する」、「そのことにぼくは傷ついていたンだ」。(65)
 さらに、純はれいに向かって、
 「(卒業後上京して夜間高校で学びたいという希望を)いったら父さん、黙って無理して金作ったりいろいろやると思うンだ」、「最近父さん何でもそうなンだ」、「オレにたいして変に遠慮して」、「ときどき何だか情けなくなるよ」、「オレが怒鳴ったっていい返さないことあるーー」。(66)
 「父親はいつまでも父親なのに、ーー。子どもに遠慮なンかして欲しくないよ」。(67)
 誕生日のプレゼントに娘から老眼鏡を贈られる年齢(とし)になった中年の悲哀。父親の老いを敏感に感じとる息子。この図式はかつて倉本聰自身が父親との関係において体験したものである。
 「僕(倉本聰)は激しく傷ついておりました。
 かつて弱かったものが弱るのはまだいい。しかしその昔強かったものが、男が惨めに衰え弱気になり、昨日の誇りまで捨てるのはたまらない。それを見せられるのは子としてたまらない。僕は異常に傷ついたのであります。 
 思えば、
 あれがわが家の世代交代のまぎれもない瞬間であったのでありましょうか。」(68) 
  ただあたりまえのように忍びよる男の秋に、肌寒さを感じる。老眼鏡にもの哀しさがつのる。
 『北の国から ’89 帰郷』における、螢に恋人ができたことを知った五郎の相当なるショック。娘を手元においておきたい一心からの五郎のあたふた。老後の夢を純に愉しそうに語る五郎。スナックにおける哀調を帯びた口調での五郎の息子自慢、娘自慢。
 「中年の男が好きである」という倉本聰の中年を描く腕は、『北の国から』においても、また冴えわたっている。
 随所にみられる男たちの黙々と働く姿。寡黙な男たちとその朴訥とした会話。草太のボクシングへの取り組み。新吉のボクシング談。吉野のボクシングのまねごととそのひと言。純が便乗させてもらったトラックの運転手の男気。そして、恋。
 第二章・第一節で述べたように五郎はことあるごとにこごみのもとに通う。それはこごみが五郎の気持ちのままを深いところで感じてくれる女性だからである。母性が強くすべてを受け容れてくれる包容力のある女性だからである。男が男でいられるのも、女性の優しさ、ぬくもり、柔らかさがあってからこそ、のことであろう。男は女に抱かれ、女をよりどころにして、懸命に男であることにすがって生きてゆくものなのであろう。これも男の大きな哀しみの一つである。
 また、『北の国から ’84 夏』でのことである。
 「やっぱりお前はキッタネエやつだなァ!」
 「あい変わらずお前は汚い野郎だなァ!」(69)
 「わかった」、「みんな正吉だな」(70)「悪いのはみんな正吉だな」、お前はもういい。正吉を呼んでこい」(71)
 正吉の言い放った、「やっぱり」、「あい変わらず」のひと言に託された重み。五郎が投げつけた、「悪いのはみんな正吉だな」のひと言の鋭さは、純の「男」を終始さいなむ。純の、ことばから受けた痛手を軸に、『北の国から ’84 夏』は展開し、ラストシーンでの純の、また五郎の告白へといたるのであるが…。
 純の内なる葛藤は男であろうとするがためのものであり、またそれに続く五郎の告白は、非を非とさとったとき、非を非と認める男の潔さに由来するものである、といえよう。
 男たちの告白は、人としての誠実さゆえの告白なのか、それとも男としての義侠心ゆえの告白なのかは、混然一体としている。
 このように、『北の国から』には、男の美学が渦巻き氾濫している。