『倉本聰私論』_「第三章 倉本聰その底流にあるもの_はじめに」(17a/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第三章 倉本聰その底流にあるもの」

「はじめに」(17a/21)
 「『北の国から』というタイトル。これはまさしく東京向けの情報で、東京に読者を想定したシナリオではないかという疑問が私にはありました。」(1)
 確かに、『北の国から』という「タイトル」には“北の国”から「東京」へ向けての「問いかけ」という意味合いがこめられていると思う。
 「誰も入植とは云ってくれない。
 自分では入植のつもりでいる。
 鍬(くわ)や鋤(すき)こそたまにしか持たぬが原稿用紙とペンを持ってきた百年遅れの屯田兵だと自分では勝手に解釈している。」(2)
  耕すべきものは自分の内なる土壌である。そして、活性化された土より生みだされた「作物」を原稿用紙でくるみ、読者のもとへ「作品」として届けるのである。
 「あなた方は毎日似て非なる食品を食べさせられているのではないですか!?」
 “北の国”の空気をじゅうぶんに呼吸した食物は、我々の胃袋を通し、我々の体に直接問いかけてくる。
 では、なぜまた東京なのだろうか。
 それは、いま「東京」が日本の政治・経済・文化の中心であるからではなく、倉本聰が生まれ育ち、暮らした地こそが「東京」だったからである。「ドラマをつくるという点で考えると、旅人として物を書くと絵はがきになってしまう」(3) と言い切る倉本聰は、自らが体験したことのない土地について云々する手の作家ではない。
 たとえ地方の東京化がしきりにいわれる昨今であろうとも、倉本聰がかりそめにも口にできるのは、四十年近くを暮らした「東京」をおいて他にはないのである。
 “北の国”での生活こそがドラマであった。
 倉本聰は、ドラマのまっただ中に放りこまれた。それは倉本聰の体をゆさぶり、根底をゆるがすものであった。四十(しじゅう)になる男の価値観をひっくり返し、なお止まない力があった。生きることの根源に目を開かせ、変わることを強要した。
 「何を書きたいとか訴えたいとか、さしたる大それた思い入り(れ)もなく、この数年間身近に起ったいわば日常の細々したことをエッセイ風に書こうと書き出した。
 北海道の殊に富良野という“地方”に住み出して丸五年。いわば五歳の僕にとって見るものきくもの全てが新鮮で、だから少年のナレーションで進んだ。
 ドラマの中で純は作者である。
 だから少々ヒネており姑息である。
 書き始めたら頭より筆先がぐんぐん勝手に進んでくれた、そんな感じの作業であった。
 殆んどのドラマが東京人によって書かれ東京で作られ地方へ流される。それが不思議な情況だということに書きつつ次第に気がついていった。
 『前略おふくろ様』でその前の数年を使い果し、以後の数年をこの作品(『北の国から 前編』、『北の国から 後編』)で使い切った。又数年間、充電せねば。」(4)
 「僕は嘗つてドラマで方言を殆(ほと)んど使っていない。それは、深く知りもしない方言を書くことは、一種物真似的カリカチュアライズになり、その地方を茶化すことになると考えてきたからである。」(5) という倉本聰は、『北の国から』を「北海道弁のセリフ」で埋めた。
 五年という歳月が、倉本聰を「旅人」から「住人」へと変えたのである。
 「倉本さんの富良野への定住には、目下のわが文学の危機状況下において、あたかもこれら先人(プーシキンやユゴー)の『亡命』に匹敵するほどの重い意味がひそんでいる、と考えられるのです。
 この時期において倉本さんが、当時の日本の社会状況もさることながら、テレビ社会のエスタブリッシュメントの総体から『亡命』するほどの距離をとった時、その複眼による観照が、どんなに深く、どんなに輝きを増したことか!(中略)同時に、そのように骨肉を削るようにして提出された一つ一つのテレビ作品が、実は当代の『芸術』創造の中でも、最も意義ある文学的試行であることが、次第に明白となりつつあるのでした。」(6)
 「ーーおそらくは、現代の危機意識から出発するかどうかが現代文学の第一要件だとすれば、『北の国から』は、ともすれば最近のホーム・ドラマが喪失(そうしつ)しているこの第一要件を、しかも、あのきびしい大自然のまっただ中で、根底的に問いなおす現代的な作品となったわけです。危機を生きぬく日本人ぜんたいの自問自答が、北海道のヘソと呼ばれるこの原野でならば、いま、濁(にご)りなくみつめられるのではないでしょうか。
 倉本さんは、こういう自問自答の先兵として、自身の生活を根こそぎその地に移し、その自問自答のゆくえを逐一(ちくいち)私たちに知らせてくれるために『北の国から』というメッセージを構築しはじめたのです。古き良き開拓者魂の系譜(けいふ)をたどって、たんに私たちのくたびれ果てた生活に活を入れようとするのではないようです。すでに自然を喪失した私たちに対して、ゆたかに残存している北辺の自然を栄養補給してやろうというのでもないでしょう。放置しておくならば絶望にのめりこみそうな現代生活の根元に、なおも生きて愛する活力をよみがえらせようとする文学そのものの耕作を、おめずおくせず不屈に試みようというのでしょう。呻き声ばかりが累積されてきた土壌に、改めて開拓の鍬(くわ)を打ちこもうとするのでしょう。」(7)
 倉本聰が、「旅人」から「住人」になる過程で見つめたものとはいったい何だったのだろうか。
 四十(しじゅう)になる男は、この地において何に触れたのだうか。
 何に感じ入ったのだろうか。
 「偉大なる平凡人」の足跡をたどってみようと思う。
 倉本聰の力強くも静かなる闘いをすくい上げてみようと思っている。