「かゆみなき間に間に_中井久夫の中井久夫たる真面目をみる」


昨夕、
中井久夫『いじめのある世界に生きる君たちへ - いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉』中央公論新社
が、ポストに投函されていました。早速読みました。はじめは、いわさきちひろさんの絵を懐かしく思いながらながめていましたが、本文を読み進めるうちに、そんなのん気な気分は一掃され、何度も戦慄が走りました。戦慄を覚えるたびにつらくなり、休み休み読み終えました。

このような文を書くと、(いじめの)対策はどうなのだという質問がさっそくでてきそうです。(77頁)

中井久夫先生のこの質問に対するお答えは、この一文に続く12行、視点をかえて数えればそれはわずか 6行のみです。そして、それは以下の文へと続きます。

 これ以上の対策をあれこれあげることは、実行もせずに絵空事を描(えが)くことになり、かえって罪なことになります。その場に即(そく)して有効な手立てを考え出し、実行する以外にない世界です。わたくしのように初老期までいじめの影響に苦しむ人間をこれ以上つくらないよう、各方面の努力を祈ります。
 ひょっとすると、この文章は、いじめられっ子に、他の誰よりもよく理解してもらえるのではないかという気がします。あえてわたくしごとを記しました。(79-80頁)

「これ以上の対策をあれこれあげることは、実行もせずに絵空事を描(えが)くことになり、かえって罪なことになります。」
この謙虚さ、このわきまえ方、実際にいまいじめの問題と向き合っている誠実な方たちへのご配慮は、臨床家として、常に「わたくしごと」の域を越えないという中井久夫先生の「すごさ」です。

神田橋條治「ボクにとっての中井久夫先生」
『中井久夫 精神科医のことばと作法』KAWADE夢ムック 文藝別冊 河出書房新社 
  (『中井久夫著作集 第II期 精神医学の経験』パンフレット 創元社)「すいせんの言葉」の中心に「仁」と「義」を置いたのは、先生の身の処し方に、高倉健が演じる任侠映画の匂いを嗅ぎ取ったからです。
 数年前、阪神・淡路大震災の回想を書かれているのを読みました。先生は当時、関東大震災の際に流言飛語に煽られて起こった朝鮮人虐殺の歴史を想起されて、今度も同じことが起こったら、「私には覚悟がある、と思っていた」と書いていらっしゃいました。そのコトバに出会って、からだの芯が震えました。しばらくして気がつきました、先生は硬派ボクは軟派、月とスッポンの差はあれど、大勢(体制)に与すことのできない、不潔恐怖症のような、不自由・窮屈な自己愛という資質を生きているのだと。標語は(「コレデイイノダ」から)「コレガイイノダ」になりました。一字違うだけですが、挫折も失意も肯定・受容する味になりました。いまでは、幼児のヨチヨチ歩きを含め、真似しては努めている若い人たちを、ニコニコしながら見守るようになっています。
 中井久夫先生と同じ時代を生きることのできたこの幸せを、誰に感謝したらいいのだろう。(79-80頁)

『いじめのある世界に生きる君たちへ』で、中井久夫先生は、
「わたくしのように初老期までいじめの影響に苦しむ人間をこれ以上つくらないよう、各方面の努力を祈ります。」
と淡白に、穏やかに書かれていますが、この一文に私は、
「先生は当時、関東大震災の際に流言飛語に煽られて起こった朝鮮人虐殺の歴史を想起されて、今度も同じことが起こったら、「私には覚悟がある、と思っていた」と書いていらっしゃいました。」
の一文にも似た中井久夫先生の「すごみ」を感じます。

「すごさ」と「すごみ」。今回、中井久夫先生の「すごみ」をはじめて知らされました。(神田橋條治先生の文章を読ませていただいたのは、読後の今日のことです。震え上がりました
いじめの問題は、中井久夫先生にとられては、「懸命」であり、一大事です。私たちは、中井久夫先生に「覚悟」を求められているのだと思います。「覚悟」とは「懸命」ということです。「命懸け」ということです。ここに私は、「中井久夫の中井久夫たる新たな真面目」をみた思いがしています。

掉尾は、
この文章を読んでくれたきみに、「ありがとう」を言います。(81頁)
との一文で結ばれています。