倉本聰『ニングル』理論社_「知らん権利」と「放っとく義務」


 ニングルは「身の丈凡(およ)そ一五センチ」。「平均寿命二七0年」。北海道は「富良野市六郷の背後に拡がる」「樹海(東大演習林)のどこか奥深く、人間社会から隔絶された場所」の住むという実在する「小人(こびと)」である。
 『ニングル』は、ニングルについて書かれた本である。手記である。「倉本聰の’黙示録’」である。
 ニングルの生き方、思想、哲学は、倉本聰の内なるものとみごとに符合し、響き合い、こだまし合った。倉本聰は、ニングルとの触れ合いを通して、自らの内なるものをはっきりと自覚した。『北の国から』の底に、力強くも静かに流れていたものが、『ニングル』において再確認され、さらなる発展をとげた。
 テレビ・シナリオという、ある種洗練された形で小出しに提出されたものが、『ニングル』においては、荒々しい原始の姿そのままに息づいている。
 『ニングル』は、倉本聰の思想の原点が記された作品である。
 ニングルは神様の近くで生きている。暮らしのテンポを「森の時計に合わせ」、自然とともに生きている。「あらゆる文明、あらゆる理屈、ーー混沌、複雑、詭弁、欲望。文化と云われる一切のものから純粋に隔離され」て生きている。「知らん権利」と「放っとく義務」とを「生活(の)信奉」として生きている。
 「『知らん権利』と『放っとく義務』。
 それは現在の日本人社会とは将(まさ)に対極にある思想ではないか。
 人間はその逆『知る権利』をふりかざし、ひっそり生きる者の神聖な領域へまでずかずか土足でふみこんでくる。人間は放っとく義務など持てない。自分に関わりない他人のことへまで、放っておけなくてしゃしゃり出てくる。ヒューマニズムとか正義の為とか適当な言葉を探し出し掲げて。」(35)

 「先生。(ニングルの長(おさ)の、倉本聰への呼びかけである。以下、ニングルの長の語ったことばである)
 人間が社会を作るとき、権利と義務という言葉を口にする。
 あれはそもそも人間の言葉でない。
 あれはそもそも神様の言葉だ。
 神様が自然をお創りになったとき、自然が永続して行く為に、権利と義務という言葉を作られた。
 あらゆる動物、あらゆる植物が、自然の中で生きて行く為に、それぞれの権利と義務を持たされた。
 今猶(なお)みんなそれを守っています。
 守っていないのは人間だけだ。
 人間だけが権利のみ主張し、自らの負うべき義務を果たさない。
 これは大変まずいことです。」(36)

 「知らん権利」とは人間の「知識欲を忌(いま)わしいものとしてぴしりと封じ」ることである。
  「知識はすすンでも心はすすまんべ。」
  「考えてもみなさい、色んなこと知ってさ、知った分人は倖せになっとるか?」
  「倖せになることもそりゃあるだろうが、知って不幸になることも多いぞ?・」(37)
 「だったら元から知らんようにして、耳ふさいで生きるのも利巧かもしれん。イヤ、それで倖せに生きとるンだったら、その方がいいようにわしも思うンだわ」
 「先生、わしゃあ最近思うンだが、知らん権利ちゅう妙な言葉を奴ら(ニングルたち)がしきりと使う理由は、人間を見てきた結果とちがうかな」
 「あいつらは人間の三倍は生きる。人間の歴史をじっと見てきとる。もしかしたら人間自身なンぞより人間をよう見て考えとるかもしれん」(38)
    造園業を営む井上みどりさん、通称「井上のじっちゃん」の倉本聰へのこの金言は、倉本聰の我々への寸鉄でもある。

 「知らん権利」と「「放っとく義務」とは、同じものごとの表裏をなすものである。頭をつかうことなく放っておくこと。自我を捨て自ずからなものに由ること、自由になること。自然(じねん)に生きること、自在に生きること。ここに私は焚き染められたふんぷんたる抹香臭さを感じる。
 衆生悉有仏性ーー生きとし生けるものすべてに仏は宿っているのである。小賢しい頭をめぐらせ、知る必要はないのである。人為を捨て、安心してたたずんでいればよいのである。
 「知らん権利」と「放っとく義務」の意味するところであると思う。
 「諦める」とは「明らめる」ということであり、それは「諦観」へとまっすぐにつながっていく。

(註)
(35) 倉本聰『ニングル』理論社(110頁)。
(36) 倉本、前掲『ニングル』(265-266頁)。
(37) 倉本聰『北の人名録』新潮社
「ここで文章について断らねばならぬが、北海道弁のニュアンスをセリフで伝えるのはむずかしい。変な所で語尾がはね上る。『連れてく?・』と、最後に?・をつけたのは『連れていくかい?』の意味ではない。『連れて行くよ』の意味である。但しその語尾がはね上る。そのはね上りを表現する為に?・というマークをつけている。」(23-24頁)。
(38) 倉本、前掲『ニングル』(186-189頁)。

「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第三章 3. その底流にあるもの」(19/21)より。