倉本聰「創るということ」



「あなたは文明に麻痺していませんか。 
 車と足はどっちが大事ですか。
 石油と水はどっちが大事ですか。
 知識と知恵はどっちが大事ですか。
 理屈と行動はどっちが大事ですか。
 批評と創造はどっちが大事ですか。
 あなたは感動を忘れていませんか。
 あなたは結局何のかのと云いながら、
 わが世の春を謳歌していませんか。」(8)

  五郎親子が移り住んだのは廃屋であった。電気はいうにおよばず、水道もなければ瓦斯もない、かろうじて雨露がしのげるだけのあばら屋。東京での“あたりまえ”のない暮らし。ここでの第一の要件は生きることであった。生きることを確と見すえ、生きることからすべてを割り出すこと。日本人が彼方へと追いやってしまった知恵を思い起こすこと。創意工夫すること。創ること。
「豊饒(ほうじょう)は人を知恵から遠ざける。
 豊かさは我々にあらゆることを、金や情報で解決させようとする。
 全てを金に頼ってしまうとき、我々は知恵を使わなくなる。
 貧しさの時代は少しちがった。
 人々は頼るべき金も何もなく、必死に自らの知恵をふり絞った。そうせねば何事も進行しなかった。そしてその時代人は夫々(それぞれ)に、物事を押しすすめる知恵を持っていた。」(9)
 倉本聰が終始一貫して説くことは「知恵」の重要さである。
 (倉本聰のいう「知恵」((ときに「智恵」と表記されることもある))とは、生きるために、生き抜くために、また生活するために必要なものやことを創りだす働き、というほどの意味合いのものであり、仏教でいう「智慧」((般若))とは自ずから異なるものである。)
 「ここの生活に金はいりません。欲しいもんがあったらーーもしもどうしてもほしいもンがあったらーー自分で工夫してつくっていくンです」、「つくるのがどうしても面倒くさかったら、それはたいして欲しくないってことです」(10)
 「(ほがらかに)お金があったら苦労しませんよ。お金を使わずに何とかしてはじめて、男の仕事っていえるンじゃないですか」。(11)
 「つくる」とは、「創る」ことである。必要なものは手を汚し、額に汗して創ることである。愉しんで創ることである。心をこめて創ることである。想いをこめ、祈りをこめ、時をこめ、今をこめて創ることである。時を惜しまず、骨を惜しまず創ることである。ただ創る、創るために創る。過程をいとおしみ黙々と創ることである。
 創ることに対する倉本聰の美学である。
 このように創ることを高めてゆけば、自ずと「道」にいきつく。なにごとにかぎらず、倉本聰の内では常住座臥、日常の茶飯がまっすぐに“芸の道”へと結びつくのである。一つの道を極めてそれを日常にまで敷衍すること、日常を極めてそれを一つの道へと昇華することーーと、倉本聰はいとも簡単にいってのける。そして、やってのける。実行にうつさないまでも、倉本聰にはそれらとむき合う気構えが感じられる。心意気が、気概がうかがえる。
 私が倉本聰に魅かれる理由の一つである。

 以下に引いた文は、富良野塾・第一期生との切なくも感動的な別れをした倉本聰が「ぼんやり」と考えたことである。

 「彼らに何もしてやれなかった。
  しかし彼らは何かを得ただろう。
  ただ。
  その得たものが『教わったもの』でなく、彼ら自身が『産み出したもの』『創ったも
 の』であったならうれしい。そういうものが一つでもあったなら、二年の歳月を納得で
 きる。
  此処(ここ)は即席のスターを生む場でなく、『創る』という感動、只それだけを、
 体験してもらう谷なのであるから。」(20)
 「彼らが周囲から九を教わり、一を思考し創造したのなら、その一に対して讃えてやり
 たい。
  一が二だったならもっと讃えたい。
  二が三だったら更に讃えたい。
  それが五だったら、絶讃に価する。」(21)

 「創る」ことにこだわる“倉本聰”のよく現れた文章である。
 倉本聰にとって、「創る」ことは生きることにまっすぐにつながった営みである。知恵をはたらかせることは、今を生きる私たちが、奥深くにしまいこんでしまったものの一つ一つを注意深く、丁寧に掘り起こす行為であり、よりよく生きる手立てである。
 
(註)
(8) 倉本聰『谷は眠っていた』理論社(106-107頁)。
(9) 倉本聰『谷は眠っていた』理論社(73頁)。
(10) 倉本聰『北の国から 前編』理論社(33頁)。
(11) 倉本聰『北の国から 前編』理論社(83頁)。
(20) 倉本聰『谷は眠っていた』理論社(254頁)。
(21) 倉本聰『谷は眠っていた』理論社(252-253頁)。

「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第三章 1. 創る」(17/21)より。