「石橋冠は、倉本聰に『十二歳の少年』と『八十歳の老人』を感じるという」

 
 石橋冠(日本テレビ・ディレクター)は、倉本聰に「十二歳の少年」と「八十歳の老人」を感じるという。
 「ふだん、倉本さんと雑談したり、ばったり出くわして、遊んだりする時、ぼくは十二歳の少年を感じますね。時々、駄々っ子というか、やんちゃというか、未成熟というか、はらはらするくらいの少年の感性のようなもの。一緒にいると自分も知らないうちに、少年時代に戻ってしまうみたいな瞬間がありますよね。それくらい純粋で素直で未来に慄(おのの)いているというか、少年の魂さながらの倉本さんに出くわす時があります。もうひとつギョッとするのは、今度はもう八十歳なのかなと、すべてを見通した達観した老人のような眼を感ずる時がある。驚くべきは、その中間を全く感じないこと。少年か老人か、そのどっちかとつき合っているのではないかと思うのですよ。
 あの瑞々しいロマンチシズムというのは、結局少年と老人の対話なのではないか。少し難しい言い方なんだけれど、少年の心と老人の達観がせめぎ合っているから、倉本ロマンチシズムというのが出てくるのじゃないかと思います。そう思うと、彼の中にある奔放とも思える少年の魂と、すべて見通してしまった老人の達観というか、諦観というか、それの入り混じっている優しいロマンチシズム、あれは倉本さんの持ち味なんだなあと思うし、そのあたりを倉本さんは、無意識にさまよっているのではないか。ーーと思ったりすることがありますね。」(55)
 「十二歳の少年」と「八十歳の老人」。ともに透明度の、また純度の高い存在である。
 俗気にあたる前の、どこまでも澄んだ目をした「十二歳の少年」と、俗塵に紛れ大いなる凡俗として暮らす、優しいほほえみを目もとに、また口もとにたたえた「八十歳の老人」ーー「本来なる自己」の声の届きやすい地平に立つ人たちである。「自己が自己を自己する」ことの、無為にして自然なる、自然(じねん)にして法爾なる生き方の容易な立場にある人たちである。

(註)
(55) 石橋冠(日本テレビ・ディレクター)、杉田成道(フジテレビ・ディレクター)「(対話)倉本脚本との格闘〔撮影の現場から〕」(北海学園北海道から編集室『倉本聰研究』理論社)171頁。

「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第三章 3. その底流にあるもの」(19/21)より。