『倉本聰私論』_「6. まとめ」(15/21)
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第二章 倉本聰『北の国から』をさぐる」
「6. まとめ」(15/21)
第二章を総括してみたいと思う。『北の国から』に登場する主な人物に共通の特徴をさぐってみようと思う。
彼らは「青春的」である。
「『青春的』という言葉は、倉本聰が『前略おふくろ様』で用いた造語だそうだが」(72)
「青春的」ということばが、倉本聰の造語であるかどうかは、定かではないが、確かに、『倉本聰コレクション1 前略おふくろ様』PART1・・・(1)』(倉本聰、理論社、一九八三年)八二頁 において、倉本聰は利夫に、「青春的」ということばを使わせている。
利夫「てめえにあの人(海)の良さがわかるか!三十一になって初めてわかるンだ!いっとくぞ。オレァ惚れたからなッ。いいかいったぞ!オレァいったぞッ」
サブ「(半分悲鳴)ハイ!」
利夫「これからオレァ、徹底的に青春的に行くからな!」
サブ「青春的ーー」
利夫「忘れないでくれなッ。ヨッ。お兄ちゃんッ!!」
サブ「ハイッ」
(中略)
語り「前略おふくろ様。東京は広いです。恐怖の海ちゃんをステキだという男が、オレの目の前につっ立ってます。三十一歳ーー青春的です」(73)
利夫の恋はまことに「青春的」で、利夫は海にせまるのであった。
「青春的」とは、青春期の郷愁にかられ、青春まっただ中の若者たちのようにふるまう、だから「青春的」、なのではなく、年齢(とし)は青春期を大きく逸脱していても、今にしてなお青春そのもの、だから「青春的」、なのである。
青春には未来への慄(おのの)きがある。夢がある。希望がある。ものごとへの、人々への、また自分への疑問符があり感動詞がある。自己との絶えざる葛藤があり、また自恃がある。青春はつねに矛盾にみちている。問題はその矛盾といかにつき合うか、である。
“北の国”の人たちの共通項は、矛盾を矛盾としてかかえて生きているということである。内なる矛盾から目をそらすことなく、内なる矛盾を確と見すえて生きている。内なる矛盾を安っぽいことばで割り切ることなく、矛盾は矛盾のままに生きている。彼らは斜に構えた生き方をよしとせず、迷いながら、つまずきながら、つねに前向き、つねに前進、滞ることなく、乾くことなく生きている。彼らは「青春的」悩みを生きているのである。
「役者やライターが持つべき疑問。常に自分に問うべき疑問。
既成の役者やライターたちが、準備を即席に終えてしまうのは、己に対する疑問がないからだ。疑問の数が途絶えてしまうから、それ以上の思考を進めることが出来ず、だから準備はそこでストップする。従って上昇もそこで終了する。
学ぶとは己れに無限の疑問を、次々と投げかけ思索することである。演劇に関しては少なくともそうである。」(74)
主要な人物たちには、常に「己れに対する疑問」がある。自己を省みる姿勢がある。が故に、「変わる」ことができるのである。柔軟な心をもった彼らは、絶えず成長し続ける人々である。
「その半年の授業の中で、僕(倉本聰)のくり返し訴えたことは、ライターも役者も“他人の中に入る”仕事であり、従って他人の心の中を、理解することから始まるという一点だった。
他人の中に入るということ。
他人の気持に立ってみること。
(中略)
シナリオを書くことは人に入ることだ。
他人の心情になり切ることだ。
役者とてそれは勿論同じである。」(75)
主要な人物たちは、「人間の中に入る」ことに長けた人々である。感情を移入することによって人の痛みを嗅ぎわける、並はずれた嗅覚をもった人々である。
そしてなによりも、「人を傷つけまい、傷つけまい」と絶えず心を配る人々である。細やかな心配りのできる人々である。心づかいの厚い人々である。
「いい方をしらんから、かんべんしてくれ」、「わしはことばの使い方を知らん。だからーーきついいい方にしかならんが」(76) と前おきする清吉。
「おらァ、しゃべるのが上手でないからーー」、「気をわるくしないできいて欲しいンだ」(77) と前もって断わる新吉。
「あのことは私がわるかったのよ」、「純君には何の責任もないの。それより、螢ちゃんだいじょうぶだった?」「テレビのことーー見たンでしょ、純君も」、「(うなずく)純君も螢ちゃんを信じてあげた?」、「人に信じてもらえないのは辛いわ」、「螢ちゃんに先生、わるいことしちゃった」(78) と純をかばい、螢を心配する凉子先生。
「そうだ。先生はかわいそうだった。/ だけど、ーー。/ それとは別に、かわいそうだったのは正吉君だ」、「正吉君はさっきの騒ぎのとき、チラと見たら涙を浮かべていたんだ。/ 正吉君はーー。/ つらかったろうな」(79) 、と正吉を思いやる純。
「この四、五日町に出かけてないね」、「行ってくれば?」、「蛍は平気だよ」、「蛍はーー父さんにーー好きな人ができても」(80) 、と、こちらの胸が痛くなるほど、できすぎた螢。
清吉も、新吉も、凉子先生も、純も、蛍も、皆すてきである。彼らはけたはずれの思いやり、優しさを内面にたたえた人たちである。
海 「お兄ちゃん」
サブ「ーー何スか」
間。
海 「お兄ちゃんは神様?」
サブ。
間。
サブ「(低く)それはいったいどういう意味ですか」
海。
海 「何でもできちゃうみたいだからさ」
サブ。
ーーその顔に怒りが吹上げる。
海 「海は人だからーーうまくいかないよ」
サブ「ーー」
間。
(後略)(81)
帳場
サブ入って伝票を置く。
語り「オレは海ちゃんにいいすぎたかもしれず」
回想
海 「お兄ちゃんは神様?」
帳場
サブ。
裏
ゴミのバケツを外へ出すサブ。
語り「オレは神様でも何でもなく。
人に説教などする資格はなく」
もどりかけるサブ。
(後略)(82)
彼らは、自らが「神様」ではなく、「人」であることをわきまえた人々である。「人」の分際を心得た人々である。余計なお説教はしない。もっともらしいことは口にしない。えらそうなことばは、決して吐かない。ところが、悲しくも、そこが「人」。軽率にもそのようなことばを口走ってしまった際には、彼らは、後で必ずや自己厭悪にかられるのである。ひどく落ちこむのである。
「(ふいに)知ったようなこというンじゃないよッ」、「だけどねッ、人にはそれぞれ自分のーー理屈にならない気持ちだってあるンだ!」、「それを知らないでガタガタ他人が、心ン中まで踏みこむもンじゃないよッ」。(83)
彼らは「人」は「人」を裁けないことを熟知した人々である。「人」の善悪、生き死にを決める権利は、「人」にはないことを得心した人々である。それぞれにはそれぞれの事情があり、それぞれがそれぞれに懸命に生きていることを知っている。それぞれの内では、すべてが完結しているのである。人に深く入ることによって、事実の重みに感じ入った彼らは、その重みをまっすぐに受けとめ、そっと他人(ひと)に寄り添うーー彼らは「する存在」ではなく、「ある存在」である。
彼らは、表情の豊かな人々である。心と体が分裂をきたしておらず、、自分の感情に忠実な人々である。彼らは楽しむ術を知っており、悲しむ術を心得た人々である。彼らには、腹の底からの、一物もない笑いがあり、透きとおった涙がある。彼らの内は感動詞に満ちている。邪気がなく、こだわりがなく、いたってさわやか、彼らは、痛ましいまでの純粋さを内に秘めた人たちなのである。
倉本聰のいう「青春的」群像である。
私の察する「倉本聰像」である。
青春とは、また、失敗が許されるときでもある。
「とにかく、国づくりの哲学を一つだけつくろうということになる。かんかんがくがく、その結果、この国は、国を富ませるということを考えるのをやめよう。そして『イフ』をやめよう。飢餓がきたら、そのときはみんな苦しむ、それでよい。それに備えようとするから富もうとする発想になる。富まなくてもいいんだ。」(84)
彼らには「イフ」ということばがない。「富もうとする発想」がない。彼らは手探りしながら、今を生きる人々である。どこまでも青春の美学にのっとって生きる人々である。
「こったらコツコツ働いていれば人間だんだん謙虚になる」。(85)
彼らは日常の人である。大自然と袖触れ合わせ、手を汚し、額に汗して黙々と仕事にいそしむ「謙虚」な人たちである。
彼らには知的な鋭さはないが、人をみる目の確かさがある。人をあたたかく包みこむしなやかさがある。純朴にして無私、無欲。いやみのない個性をもち合わせた人たちである。どこをとっても憎めない愛すべき人々である。
C・W ニコルは、富良野塾の塾生たちを「クリン・アンド・クリア」であると評した。
倉本聰は、塾生に対して「偉大なる平凡人になれ」という。
「クリン・アンド・クリア」。
「偉大なる平凡人」。
『北の国から』の主だった作中人物たちは、こんなことばがぴったりの人々である。