『倉本聰私論』_「1. 創る」(17b/21)
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第三章 倉本聰その底流にあるもの」
「1. 創る」(17b/21)
「あなたは文明に麻痺していませんか。
車と足はどっちが大事ですか。
石油と水はどっちが大事ですか。
知識と知恵はどっちが大事ですか。
理屈と行動はどっちが大事ですか。
批評と創造はどっちが大事ですか。
あなたは感動を忘れていませんか。
あなたは結局何のかのと云いながら、
わが世の春を謳歌していませんか。」(8)
五郎親子が移り住んだのは廃屋であった。電気はいうにおよばず、水道もなければ瓦斯もない、かろうじて雨露がしのげるだけのあばら屋。東京での“あたりまえ”のない暮らし。ここでの第一の要件は生きることであった。生きることを確と見すえ、生きることからすべてを割り出すこと。日本人が彼方へと追いやってしまった知恵を思い起こすこと。創意工夫すること。創ること。
「豊饒(ほうじょう)は人を知恵から遠ざける。
豊かさは我々にあらゆることを、金や情報で解決させようとする。
全てを金に頼ってしまうとき、我々は知恵を使わなくなる。
貧しさの時代は少しちがった。
人々は頼るべき金も何もなく、必死に自らの知恵をふり絞った。そうせねば何事も進行しなかった。そしてその時代人は夫々(それぞれ)に、物事を押しすすめる知恵を持っていた。」(9)
倉本聰が終始一貫して説くことは「知恵」の重要さである。
(倉本聰のいう「知恵」((ときに「智恵」と表記されることもある))とは、生きるために、生き抜くために、また生活するために必要なものやことを創りだす働き、というほどの意味合いのものであり、仏教でいう「智慧」((般若))とは自ずから異なるものである。)
「ここの生活に金はいりません。欲しいもんがあったらーーもしもどうしてもほしいもンがあったらーー自分で工夫してつくっていくンです」、「つくるのがどうしても面倒くさかったら、それはたいして欲しくないってことです」(10)
「(ほがらかに)お金があったら苦労しませんよ。お金を使わずに何とかしてはじめて、男の仕事っていえるンじゃないですか」。(11)
「つくる」とは、「創る」ことである。必要なものは手を汚し、額に汗して創ることである。愉しんで創ることである。心をこめて創ることである。想いをこめ、祈りをこめ、時をこめ、今をこめて創ることである。時を惜しまず、骨を惜しまず創ることである。ただ創る、創るために創る。過程をいとおしみ黙々と創ることである。
創ることに対する倉本聰の美学である。
このように創ることを高めてゆけば、自ずと「道」にいきつく。なにごとにかぎらず、倉本聰の内では常住座臥、日常の茶飯がまっすぐに“芸の道”へと結びつくのである。一つの道を極めてそれを日常にまで敷衍すること、日常を極めてそれを一つの道へと昇華することーーと、倉本聰はいとも簡単にいってのける。そして、やってのける。実行にうつさないまでも、倉本聰にはそれらとむき合う気構えが感じられる。心意気が、気概がうかがえる。
私が倉本聰に魅かれる理由の一つである。
「『職人』。何とうれしい言葉だろう。最近は悪い代名詞のように使われる。彼はまァ云ってみりゃ職人ですからね。(中略)自分について云うならば、どんなに他人から悪い意味で、『あいつは職人だよ』と噂されても、僕は職人になりたく思っている。そりゃァ金も欲しい、ダメな男だから色んな欲もある。只しかし一点、己の脚本を書く仕事に関しては、たとえ一人をでもそのホンが誰かを心底摶ってくれさえすれば何もいらないと考えちゃう所がある。泣いて下すった旦那がいたら、あたしゃもういいよとそんな感じである。その一点に人生を絞り、他の全てには無知無学、お前馬鹿かなんて云われて生きたい。」(12)
倉本聰の創造の美学の頂点に立つものは、昔気質の「職人」である。
「昔の職人には、少なくとも自分の職業に対してだけ激しい情熱と誇りがあった気がする。彼らはたとえば柱一本、植木の刈込み一つにも、金銭を度外視した、いわば自分が納得できるまでの徹底的なこだわりがあった。それが職人の意地であり、他のことなどどうでもよかった。そして又それら職人の仕事を、理解(わか)ってくれるいい旦那がいた。今その旦那はいるンだろうか。(中略)職人は決して文化人じゃないし人の範となる人でもない。だからこそ職人は職人でいられたのだと、僕は今なつかしく思うのである。」
(13)
「決して文化人じゃないし人の範となる人でもない」市井の人、「職人」を頂点に立たせることにこそ、倉本聰の倉本聰のたる由縁がある。
「『よし五分引きだ!』
ヨシオさんが叫び、一同セエノと声を合わせてヨイヤッ、ヨイヤッとつなを引いた。成程少しずつ洞の木は動いた。
五分引きという言葉ははじめてであった。後にヨシオさんに訊ねてみると木材の方ではよく使うという。全く動かぬものに対して、五分ずつ動かして行くやり方である。十メートルあろうと百メートルあろうと一センチ程ずつ動かして行く。つもりつもらして事を成す。都会の人間の学ぶべき所である。
半日かかって洞の木は立った。」(14)
これは、倉本聰が実生活において、アメリカ開拓時代に行われていた原始的な方法に倣って燻製をつくろうと思い立ち、友人たちの手を借りて、洞の木を庭に運びいれたときの一コマである。(「五分引き」ということばこそ使われていないものの、この体験は五郎親子の燻製づくりに反映されている)
業者に頼み、クレーンでひょいと、などという洒落たことは決して考えない。思いもつかないのである。たのむべきは常に己の力だけである。時を稼ぐことによって、事をなすのである。
「今都会ではあらゆることが人に頼むことで要求を充たされる。一寸した困難、わずらわしさの度に我々は誰かに解決を依頼する。夫々の分野の専門家がいてつまらぬことにもすぐ来てくれる。そしてそのことに金を支払う。都会は依頼の構造でできている。それは確かに便利なことである。しかしその便利さは一方に於いて創造の喜びから人を隔てている。創造のない世界は人を貧しくする。弱くする。」(15)
『北の国から 前編』、『北の国から 後編』だけにかぎってみても、「メイド・イン・黒板家」の商標をもった物がたくさんある。五郎は実にたくさんの物を創った。気のいい仲間たちの協力を得て、さまざまな物を創りあげた。あるときは、純や螢もそれに加わった。手を貸さないまでも、常に出来あがるまでの過程をつぶさに観ていた。目を輝かせ、胸をときめかせて見つめていた。祈るような気持ちで目を凝らしていた。「創造のよろこび」を全身に浴びていた。
それらはすべて日常生活で手にする物ばかりであった。
廃屋の修理を手がけた。冬の間中の食料の貯蔵庫、丘ムロを創った。川の水をパイプで引き水道を創った。自らの手で図面をひき、元 土橋だった古材を材料に、丸太小屋を創った。
このような暮らしのなかで、純と螢は「感動」することをおぼえていった。
「父さんの水道がやっととおった日」、「風力発電で電気がついた日。東京で感じるうれしいこととぜんぜんちがった、そういううれしさを、ぼくらすこしずつ知っていったンだ」(16)
「現代は、日本人、感動というものを知らなくなっちゃたのではないか、という気がするんですね。たとえば、大学に受かったっていうことが感動なんだろうか。お金が儲かったってことが感動なんだろうか。試験に百点とったのが感動なんだろうか。それらは単なるよろこびであってね。感動っていうのはもうひとつ、ザワザワと、こう、軀の奥底をゆさぶるものでなければならない。そのことをあまりに皆さんが知らなさすぎる。」(17)
「物が何もなくても、何とか工夫して暮らすンだということ」、欲しいものは創るンだということ。「創造の喜び」、一つのことを為し遂げた後の感動ーーこれら手づくりの暮らしのなかで、純と螢を変えた最たるものは、物に対する態度であった。さまざまな物の、それぞれの履歴を感じるようになった。物の陰に隠れてみえなかった人の姿をそこに発見した。
物の有り難さを肌身で感じた二人は、必要な物とそうでない物とを区別しはじめた。
「何でも新しく流行を追って、つぎつぎに物を買うぜいたくな東京。
流行におくれると、まだ使えるのに簡単に捨てちゃう都会の生活」(18)
「今の道具でこと足りているのに、どうして人は新しいもの新しいもの、より複雑なものへと志向するのか。文明開化がそんなにうれしいのか。」(19)
物に対する感じ方が変わったとき、純と螢は、はっきりと東京と訣別した。踊らされ買わされ続けてきた自分、商業主義社会に毒され続けてきた自分、大いなる無駄のなかで暮らし続けてきた自分に気づいたとき、二人は迷うことなく地に足のついた生活の豊かさをとったのである。
以下に引いた文は、富良野塾・第一期生との切なくも感動的な別れをした倉本聰が「ぼんやり」と考えたことである。
「彼らに何もしてやれなかった。
しかし彼らは何かを得ただろう。
ただ。
その得たものが『教わったもの』でなく、彼ら自身が『産み出したもの』『創ったも
の』であったならうれしい。そういうものが一つでもあったなら、二年の歳月を納得で
きる。
此処(ここ)は即席のスターを生む場でなく、『創る』という感動、只それだけを、
体験してもらう谷なのであるから。」(20)
「彼らが周囲から九を教わり、一を思考し創造したのなら、その一に対して讃えてやり
たい。
一が二だったならもっと讃えたい。
二が三だったら更に讃えたい。
それが五だったら、絶讃に価する。」(21)
「創る」ことにこだわる“倉本聰”のよくあられた文章である。
倉本聰にとって、「創る」ことは生きることにまっすぐにつながった営みである。知恵をはたらかせることは、今を生きる私たちが、奥深くにしまいこんでしまったものの一つ一つを注意深く、丁寧に掘り起こす行為であり、よりよく生きる手立てなのである。