「テレビドラマの限界_倉本聰『りんりんと』,山田太一『早春スケッチブック』」
「じつにコマーシャルの存在こそ、テレビ技法に最大かつ最も包括的な制限を示すものである。テレビは本質的には広告メディアであって、演芸のそれではない。(中略)この恐るべき制限に加えて存在するのが、視聴者は軽いドラマ、恋する若く美しい男女に関する明るい喜劇だけを見たがっているという広範不恋(変?)の幻想である。」(25)
つぎにテレビドラマの限界という視点に立って、テレビ・シナリオの特徴をさぐってみたいと思う。
倉本聰に『りんりんと』(26) と題する作品がある。一九七四年に北海道放送によって制作されたドラマである。北海道の老人ホームに入居する老母を、息子が送っていく旅を描いた作品であり、「珠玉と呼んでいい短編小説の趣き」をもった「ホン」である。老いた母親の、息子への、あまりにも哀しい問いかけを「ヘソ」にもった作品である。
さわ「信ちゃんーー」
信 「(見る)なあに?」
さわ、ーー夏みかんの袋をむいている。
海鳴り。
さわ「(むきつつ、さり気なく)母さん本当にーー。生きてていいの?」
ドキンと母を見て凍りついた信。
ーー。(27)
倉本聰自身の母親が、生前実際に口にしたことばでもある。
「かつて僕自身の母が死んだ直後、『りんりんと』というシリアスな形で老人問題を書いたことをその頃僕は反省していた。茶の間に入ってくるテレビの中で、ああいう形のストレートな物云いはどうもよくないと思い始めていた。テレビはやはり娯楽であるべきだし、娯楽の中でこそ云いたいことをさり気なく出すのが筋だと思った。」(28)
「これはシビアなストーリーである。
恐らくテレビドラマとして、これがぎりぎりの限界だろう。
僕自身、ここまでシリアスな作品は、テレビではあまり書いてはいけないと思っている。」(29)
いっぽう、山田太一には、『早春スケッチブック』(30) と題された「ホン」がある。一九八三年にフジテレビによって制作されたドラマである。
「いつかは自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう」
ニーチェの辛辣なことばを「ヘソ」にもった作品である。「ストレートな物云い」の作品である。「シビアなストーリー」の「ホン」である。
「ニーチェの『いつかは自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう』という言葉が、このドラマの糸口でした。(中略)(『北の国から』のプロデューサーでもある中村敏夫さんから)『いま一番書きたいものを書かないか。受けて立つから』といわれ、不意に学生の頃読んだその言葉が横切ったのでした。いや、前から時折、企画の話をしながら、そのモチーフが口から出かかったことはあるのですが、とてもそんなものは相手にされないだろうと思い、抑制し、このところは浮んで来もしなかったのです。見ていらっしゃる人々とそれほど違わない家族の生活を描き、そこに『なんてぇ暮しをしてるんだ』という罵声を浴びせかけるドラマが、いまのテレビ界で可能だとは思えなかったのです。しかし、私は私自身に向ける罵声として、そういうものの必要を感じておりました。いくつもの家族のドラマを書いて来たライターのやるべきことのひとつのような気持ちもありました。『面白い。やりましょう』中村さんは、即座に受けとめてくれました。(中略)(多くの反響を呼び、評価も高かったのですが)この作品は視聴率がよくありませんでした。平均視聴率が七.九%だったのです。通常十%を越えないドラマは失敗作ということになってしまいます。この作品も、駄目な作品ということになり、この傾向のドラマが書かれる道は、閉ざされてしまいました。(中略)(少なく見積っても四00万人に近い方々が見て下さったわけですが)しかしそんなことをいったってテレビの世界では相手にされません。視聴率のよくないものは、議論を越えてとにかく『よくない作品』なのです。」(31)
ところが、別のところで、倉本聰は、
「(テレビドラマのシナリオライターは)大局的にはコメディ作家であるべきだというのは極論かもしれませんけど、(中略)ただ気が滅入るドラマという爆弾も時々投じたくなるし、爆弾を投じられる立場であるわけですね。テレビを書いているということは、局という巨大な壁があって、その中へなかなか爆弾持ちこめないですけど、チャンスがあれば、ときどき爆弾を持ち込んで家庭へボンと放り込みたいという衝動もあるわけです。」(32)
また、山田太一は、
「今の多くのテレビドラマは安っぽい通念以外の観念は忌避してしまいがちなのですね。昨年『早春スケッチブック』を書いた時に、意識的にニーチェといった思想家から栄養を得ている人物を出しましたら、やはり視聴率がよくない。何も観念だけを肥大させようというつもりはありませんが、人間は感情と同時に観念によってもつき動かされていく存在です。だからまず、人間をリアルに表現しようとすれば、観念を無視することはできません。もう一つは、ドラマが現実の『見事な』反映だけで終わってしまうというのでは、つまらないと思う。戦争中の滅私奉公精神に対する反動で、戦後は私生活優先、あるがままの自分を肯定しようという考え方が強かった。しかし、もう『あるがままの自分』なんかじゃつまらない。少しでも『あるがまま』よりましになろうとする人間の魅力を書いてみたいという気がしています。それは、自分にないからかもしれませんけれど…。
たんに現実を反映するだけの作品というのは、既に役割が終わったと思います。現実を反映していると同時に、どこかで現実を超えていく要素をもつ作品。夢に遊ぶというようなものでもいいのです。そういう作品を作りたいと思います。
今の時代に耐えるような夢を描くことはとても難しいことだとは思いますが…。」(33)
テレビドラマのあり方を熟知し、現代を代表するシナリオライターである両氏が、はからずも同じような考え方をしていることは興味深い事実である。
私はそれぞれの作品を読んだだけであり、テレビでは観ていない。ーーことさらに好きな作品である。何よりも「爆弾」に相当する部分が好きである。
P・チャエフスキーが、「それ(テレビドラマが人生の皮相下を掘り下げること)は遅かれ早かれタブーに、必ずしもテレビのみでなく、われわれの生き方全体に対するタブーに正面からぶつかるであろう領域である」といったのは、一九五五年のことであった。
それが「今」なのかもしれない。
「今」、そのタブーこそタブー視すべき元凶であることを旗印に、心あるシナリオライターたちが立ち上がったのである。戦いの火蓋は切って落とされたのである、とも考えられる。
どうか、「道は閉ざされた」などとはいわずに、ゲリラ的戦法で、「爆弾」を投じ続けていただきたいものです。
P・チャエフスキー同様、私自身も「これこそ(テレビ)ドラマの進む(べき)所と感じないではいられない」のである。
テレビドラマには無数の制約があり、その枠内でしか執筆は許されない。テレビ・シナリオは、まさしく「テレビ語」で書かれた作品である。善かれ悪しかれ「テレビ語」でしか書けない作品なのである。
(註)
(25) P・チャエフスキー『独身送別会』(江上照彦訳、社会思想社、1988年)204頁。(26) 倉本聰『倉本聰コレクション8 幻の町』(理論社、1983年)。
(27) 倉本、前掲『倉本聰コレクション8 幻の町』122頁。
(28) 倉本聰『さらば、テレビジョン』(冬樹社、1978年)204頁。
(29) 倉本聰「テレビドラマに思うこと」(倉本、前掲『倉本聰テレビドラマ集1 うちのホンカン』94頁)。
(30) 山田太一『山田太一作品集ーー15 早春スケッチブック』(大和書房、1988年)。(31) 山田太一「あとがき」(山田、前掲『山田太一作品集ーー15 早春スケッチブック』、321-322頁)。
(32) 「対談=山口瞳 vs 倉本聰」(倉本聰『倉本聰テレビドラマ集3 前略おふくろ様』ぶっくまん、1977年、287頁)。倉本聰談。
(33) 「ザ・ライバルズ 倉本聰ーーシナリオライター 山田太一ーシナリオライター」(『太陽』NO.267、1984年、74頁)。
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第一章 倉本聰のシナリオをさぐる」
「2. テレビ・シナリオの特徴」(06/21)より。