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白川静「中国の神話 ー 奪われたものがたり」

「 中国の神話 ー 奪われたものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  白川先生の三作を選ぶとしたらね、絶対『孔子伝』は入れんならん。それに、字引ですね、字書三部作。それからもう一つは古代中国の専門的な研究だなあ、或いは『詩経』だな。 (中略) ギリシア神話はよく知られてる、ローマ神話は知られてる、日本の神話は知られてるけど、中国の神話ってものがあんまり知られていないような気がしますけどね。 白 川  日本の場合には神話が一つの国家神話的な形で統一されてね、本来別々のものが何か関連があるという風な形にそれぞれ部署が与えられてね、まとめられて、そしてそういうまとまったものが神話である、という考え方が我々の中にあった。 梅 原  ギリシアもそうですね。 白 川  ところが中国のはバラバラなんですね。それは非常に古くからあった部族国家が、それぞれみな神話を持っておった。それが色々、滅ぼされたり移動したりする間にね、場合によっては受け継がれることもあるけれども、或るものは滅びてしまう、という風にしてね。まとまった形では殆ど残ってないんですね。  ただ、しかし残されたものが、先刻言いましたように『楚辞』の中に、或いは『荘子』の中にたくさん出て来る。それから『山海経』という大変不思議な書物ね、あの中にまた色々な神像が出て来る。 白 川  (前略)本来は実際に神話として生きておった時代がある訳ですね。そういう風なものが形骸的に残ったのが『山海経 』。 梅 原   日本神話というのも、実際はあちこちに語られておる神話を一つの体系にまとめたんです。非常にそこに無理があるんですけどね。中国は殷も周もそういう神話を統一するという、そういう要求を持たなかったんですかね。 白 川  それは違った神は信仰しないという考え方があるの。その神にあらざれば祀らず、というね、違った神様を祀るということは決して幸せなことでないという考え方がある。 梅 原   ギリシアでも『神統記(しんとうき)』とか、統一しようとする動きがあります。神を祀っている部族を統一しようとする要求の中から起こって来た。日本の神話も、ギリシア神話もね。中国は「神を祀らず」だから、自分の神しか出て来ない。だから神話が落ちた訳ですか。 白...

白川静「ディオニュソス的中国観」

「『白川静 』の学問 ー 異端の学?」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  もう三十年も前になりますか。それからずっと、先生をみてますと、先生は年々偉くなってる。年々先生の凄さが私にも解ってきたような気がする。  前は先生を偉いが異端の学者だと思ってましたけど、中国学の本道ではないと思ってました。しかしだんだん、先生が一つの大きな学問を開かれているんだという、そういうことを実感し始めたのです。私は先生の本の全部を理解するにはとても及びませんけど、私の理解した部分だけでも、一つの新しい中国学がここで始まっていると、中国の文明というものを本当に理解するためにはどうしても必要な、世界的に重要な新しい学問が先生によって作られているんだ、ということをつくづく感じます。  この例は適当かどうか解りませんけど、私が若い時から好きなニーチェ、このニーチェがディオニュソス的ギリシアを発見した。今まではアポロン的に、合理主義的に理解されて来たギリシア哲学は理性の体系だと、ギリシャ思想は “もの”をクリアに見るアポロン精神でのみ理解されて来たんですが、そればかりではない、もう一つギリシアには、違った精神がある、それはディオニュソスだと。ディオニュソスというのは酒の精神ですからね、情熱が溢れ出るようなそういう熱狂の精神がギリシアにある。それがニーチェの新しいギリシアの発見です。そのニーチェの発見と同じものが先生にはある。  私は吉川幸次郎(よしかわこうじろう:京都大学名誉教授)先生の著作を愛読しているんですけど、吉川先生が中国でいちばん好きなのは孔子(こうし)と杜甫(とほ)だと、特に杜甫ですね。それは不可思議な世界があることを感じてはいるが、認識を人間の及ぶ理性の範囲に留めた。いわゆる「怪力乱神 を語らず」です。そういう点で、孔子と杜甫をいちばん評価している。「吉川中国学」というのは、アポロン的な中国観なんですよ。  ところが先生はディオニュソス的中国観を開いたのです。アポロン的なものの見方を真っ向から変えてしまった。漢字の背後に全く不合理としかいえないような、畏しい神の世界がある。(26頁)  従来の「中国学」は、「白川中国学」を通して見直しを余儀なくされ、また今後の「中国学」は、「白川中国学」の上に築...

白川静「鳥が運んだものがたり」

「死・再生の思想 ー 鳥が運んだものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  特に縄文時代、しかし弥生時代にも多分に縄文が残っているでしょう 、殷的なものが。それから、やはり「死・再生」です。魂が古い屍を去って、あちらへ行く。無事あちらへ送らなくちゃいけない。そういうのが大きな願いなんですね。生まれるのは、今度はあちらからこっちへ帰って来る。  死・再生というのは東洋の重要な宗教儀式だと思っているんですが、例の伊勢神宮の柱ですね。 編集部 心(しん)の御柱(みはしら) 梅 原  御遷宮(ごせんぐう)ですね、柱の建て替え。それと同じようなものが 「 諏訪(すわ)の御柱(おんばしら)」。 (また能登の「真脇(まわき)遺跡のウッドサークル」) (中略)  だから御遷宮のように木を作り替える。ウッドサークルは縄文まで遡るんですよ。それはやはり生命の再生。木は腐る、だから腐らないうちに、神の生命が滅びないうちに、また新しい神の命を入れ替えてですね、ずっと伝える。こういうのがですね、私、日本の宗教の基本だと思ってますが、こういう儀式をもっと壮大にしたのが殷の姿だと、字の作り方なんかで感じました。 白 川  中国ではね、鳥形霊(ちょうけいれい:鳥の信仰は全世界に分布する。鳥は必ず水鳥・渡り鳥である)という考え方があるんですが、これはやはり祖先が回帰するという考えに繋がっておるんじゃないかと思う。季節的に決まった鳥が渡って来るでしょ。 梅 原  水鳥ですね。鳥の信仰は殷にはありますか、鳥は霊ですか。 白 川  あります、鳥は霊です。星でも鳥星(ちょうせい)ちゅう星を特別に祀っています。どの星のことか知らんけど、甲骨文に出て来る。特別の信仰を持っておったんではないかと思うんですがね。  鳥星は「好雨(こうう)」の星と考えられていたので、「止雨(しう)」を祈るんです。甲骨文にそのことが書いてある。 梅 原  (前略)だから今の日本でやる玉串奉奠(たまぐしほうてん)というのは、あれ、(鳥の)羽根ですね。ひらひらしているの。これはやっぱり僕は共通の信仰だった気がしますね。はっきり出て来ますか、鳥は。 白 川   ええ、だから色んな民俗的なものにも出て来てね。例えば軍隊を進めるかどうかという時ね、「隹」書き...

白川静「死と再生のものがたり」

「殷と日本 ー 沿海族の俗」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 まずはじめに、 梅 原  私が興味を持っているのは少数民族なんです。アイヌの人たちに興味を持ったのは、彼らが縄文の遺民であり、縄文文化を理解するにはアイヌ文化を理解しなければならないと思ったからです。縄文時代のことで考古学では解らんことは、アイヌの風習で解いたんですが、それで大体当たっている。(133頁) 編集部  先生、あの「殷」という字ですけど、少し説明して頂けますか。 白 川  「殷」は商の蔑称ですからね。扁(へん)は身重(みおも)の形。旁(つくり)は「叩く」。どういう意味か解らんけども妊婦を叩くんだから、何か呪的な意味があったんでしょうね。それを廟中(びょうちゅう)、御霊屋(みたまや)で行う字形もある。妊婦の持っている特別な力を作用させるために、妊婦を叩く。「殷」というのは「激しい」とか「破壊」、血が出る場合には「万里朱殷(ばんりしゅあん)たり」いう風に、万里血染めになるという。だから非常に激しい意味を持った字ですね。 梅 原  ああ、そうですか。これは面白いですね。その妊婦でいえば縄文の土偶(どぐう)は、全部妊婦なんです。 (中略)   その意味が長い間解らんかったんですが、ハル婆ちゃんにアイヌの葬法について聞きますと、妊婦を埋葬するのがいちばん難しいと言うんです。というのは、子供が生まれるというのは新しく生まれるのではなくて、祖先の誰かが帰って来たということなんです。だから子供が出来ると、A家とB家の祖先が相談して、誰を帰すか決める。で、決まったら妊婦の腹に入って出て来る。だから胎児が死ぬと閉じこめられて、出て来れない。これは大きなタタリになる。ですから妊婦が死ぬと霊を司るお婆さんが妊婦の腹を割いて赤子を取り出し、妊婦にその子を抱かせて葬るということを聞いたんです。  そこから土偶を見ると、「妊婦」「異様な顔」(死者の顔)「腹を縦に割く」(赤子を取り出す)「バラバラにする」(この世で不完全なものはあの世で完全という思想)「丁寧に埋葬されている」という風に条件が当てはまる。こういうことをある媒体に書きましたら、福島の方から手紙を頂いて、福島の方では明治の頃までは、死んだ妊婦の腹を割いて胎児を取り出し、妊婦に抱かせて、しか...

白川静「荘子の儒家批判」

「荘・老 ー 『荘子』・神々のものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  (前略)もう一つ面白かったのは、老子(ろうし)がですね、そういう殷の思想を受け継いでいるんじゃないかという先生の指摘ですけどね。これも大変面白かったですね。 白 川  それはね、儒教の批判者としては、荘周(そうしゅう)、荘子(そうし)ですね、荘子が初めに出て、老子というのは実は後なんです。 梅 原  普通逆に考えられますけど。 白 川  『老子』という書物は全部箴言(しんげん)で出来ている。全部韻(いん)をふんで、格言みたいなね。箴言集なんです。  荘周の学派は、どちらかというと儒教とやや近いんですけれども、うんと高級の神官のクラスですね。この連中はお祭を支配する司祭者ですから、古い伝統をよく知っている。神話なんかもよく知っている。そして古い氏族の伝統なんかもよく知っている。そういうことを知っておらんと祭は出来ませんからね。  だから同じ祭儀を行うにしてもね、儒家はそれの下層の方、荘周の一派はそれのうんと上層のね、神官の知識階級ですね。だから彼らのものの考え方はかなり哲学的であるし、ニーチェなんかに似とるとよく言われますね、あの文章は。そういう非常に思弁的なグループなんですね。そして彼らが儒家の思想を批判するのです。儒家の考え方というものはね、葬式とかそういう「もの」に即して具体的であり、現実的であるけれどもね、超越的な、絶対的なという風な、形而上的なものがないという。 梅 原  その通りです。 白 川  そういう立場から、儒家を批判する。そしてその批判する議論の仕方にね、単に論理を使うだけではない、いわゆる寓話を使う。その寓話の大部分が神話です。当時おそらくあったと思われる神話は、殆ど『荘子』三十三篇の中にある。儒教はね、神話は殆ど使わない。 梅 原  そうですね。ないですね。 白 川  彼らはその伝承にあずかっておらんのです。ところが荘周の一派はね、そういう神話の伝承を持っておって、そういう立場から古代の葬式を支配しておった。彼らからみると、儒家の考え方は相対的であり、思弁的でないと。もっと超越的な立場というものを持たなければ、思想というものは完成されないという、そういう立場からね、儒家の実践道徳的なそ...

白川静「『孔子伝』_つくられた聖人像」

「和辻哲郎の『孔子』 ー 白川静の『孔子伝』」   「 対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 白 川  中国の思想史・精神史においては古典的な「聖人の系譜」というものがあって、従来はね、初めから聖人であることを認めた上で書くというやり方です。今の視点から見ている。  しかし僕は「儒教(じゅきょう)というものがどういう風に成立して来たのか、という社会思想史的なものとして捉えたかった。この思想そのものが、いかにして成立して来たのか、どうして孔子という人物が古典期を代表するような思想家となりえたのか、という問題を(『孔子伝』で)正面において考えてみた訳です。  大体、孔子自身が自分で聖人ではないと言うておるんですよ、人が自分をそう評価したと言うことを聞いてね。彼自身は宗教的な存在になろうという気持ちはないんですね。むしろ『論語』とか他の資料を見ていくと、彼自身は変革を望んで何回か試みようとした。そして挫折した。  もし彼が成功しておれば一人の政治家で終わっただろうと思います。ところが彼は最後まで失敗して、流浪の生活をして、惨憺たる生涯ですわな。だからそういう生涯自体が一つの思想になります。そしてあの儒教というような一つの思想体系を組み立てるようになった。つまりその人格的な求心力というものが、多くの弟子を招き寄せた。  儒教の思想というのは、実際にはその弟子たちによって構成されたのです。核心になるところは孔子が言ったことですが、それを儒教的な体系に組織したのは弟子たちです。これはキリスト教と一緒です。本人はそう大したことは言うておらん(笑)。(122頁)  歴史中に埋もれたであろう「一人の政治家」と、祀り上げられ歴史上の「聖人」となった孔子と、白川静が描く『孔子伝』は興味深い。多少の差こそあれ、伝説とは作るものであり、作られるものであろう。「本人はそう大したことは言うておらん」、次第に、真実の所在は、この辺りにあるかのような気がしてきた。  白川静に感化されてきた。私の白川伝説のはじまりである。「本人はそう大したことは言うておらん」とは、夢夢思ってはないが、自覚症状なく、自覚症状がないのは危険信号、と心得ている。

白川静「やっぱり、蘇東坡かな」

「蘇東坡と陶淵明 ー「白川静」は三人? 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  先生は、中国史の中に登場する人物では、誰がいちばんお好きですかね。 白 川  一人だけですか。ず〜っと歴史的にみていって… 梅 原  ええ。 白 川  やっぱり、蘇東坡(そとうば)かな。 梅 原  蘇東坡ですか、ああ。どういうところでしょうかね。 白 川  彼はね、非常に才能もあり、正しいことを言うとるんだけれどもねえ、何遍も失脚してね、海南島(かいなんとう)まで流されたりして、死ぬような目に遇(お)うて、それでも知らん顔してね、すぐれた詩を作り、文章を書き、書画を楽しんでおった。 梅 原  ああ、そこがいいんですか。陶淵明(とうえんめい)はどうですか、陶淵明は。 白 川  陶淵明はね、ちょっと悟り過ぎ。詩はいいですよ。 梅 原  ああ、詩はいいですね。 白 川  詩はいい。詩はいいけどもね、生き方としてはね、ちょっと悟り過ぎだしね。晩年どうしとったんか解らん。四十ぐらいまでは詩でよう解りますけどね、あと死ぬまで何しとったんかね、よう解らん。まあ、世に隠れておった訳でしょうね。 梅 原  今度先生の本読んで、先生はね、隠れた詩人だと僕は思ったなあ。だからね、先生の文にはどこか解りにくいところがあるんだな。やっぱり詩のようにね。ちょっとこう独自の文体ですよ。ちょっと気負った文章なんですよ、先生のはね(笑)。 白 川  (笑) 梅 原  洒落た文章なんですよ。最後はちょっとねえ、わざと解らないようにしてるんですよ。言葉の深い意味を捉えて、それを抑えて表面には出さずに文章を書く。先生は詩人だと思ったなあ。文章が美しいんだよ。 白 川  三(散)ぐらいでしょ(笑)。 (←「散人」の意?) 編集者 詩(四)人じゃなくて、三(散)ぐらい(笑)。 梅 原  いやあ、先生は三より上の四、やっぱり詩人ですよ(笑)。(36-37頁)  蘇東坡の「知らん顔」はいいですね。 「小林(秀雄)は、ランボーが詩を棄てた原因を、『面倒になった』からだといった。」 (若松英輔『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』慶應義塾大学出版会 166頁)  陶淵明についての会話を聞いて、こんな一文が思い出された。また 、散人、詩人の順列は愉快である。 「や...

高橋和巳「S教授と文弱な私」

「立命館と高橋和巳 ー 『捨子物語』と「六朝期の文学論」」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社  立命館大学で中国学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後十一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜の校庭に陣取るとき、学生たちにはそのたった一つの部屋の窓明りが気になって仕方がない。その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変るという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ。  たった一人の偉丈夫の存在がその大学の、いや少なくともその学部の抗争の思想的次元を上におしあげるということもありうる。残念ながら文弱な私は、そのようではありえない。((高橋和巳)『わが解体』)(37-38頁) (S教授とは、白川静教授のことです) 以下、最後の、 ◇「蘇東坡と陶淵明 ー「白川静」は三人? ◇ 「立命館と高橋和巳 ー 『捨子物語』と「六朝期の文学論」 ◇「長生の術 ー 百二十歳の道」 の三つのタイトルの下では、白川静さん、梅原猛さん、そして編集部の方も加わって、軽妙で洒脱な会話が交わされ、三者三様に楽しまれている。 「当時の立命は素晴らしかった」と言った梅原さんの発言が結論めいているが、九十一歳になられる白川さんへの労りの言葉に満ちており、本対談の掉尾を飾る、粋な計らいとなっている。

白川静「三千年前の現実を見ることができる」

「三つの文化 ー 文身、子安貝、呪霊」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 白 川  第一にはね、殷の文化と日本の文化、これは一つの東アジア的な「沿海の文化」として捉えることが出来るのではないかと思った。  殷の文化のいちばん特徴的なものは、まず文身(ぶんしん:入青のこと。ただ文身は刺青と違って描くだけ。刻さない。)の俗があること、これは殷以降にはありません。それから貝の文化。子安貝(こやすがい)ですね。 白 川  もう一つはね、呪霊(じゅれい)という観念ですな。シャーマニズム的なね。お祭が殆どそういう性格のお祭なんです。何々のタタリに対する祭、というね。 白 川  そしてこの三つが共通した基礎的なものとして、文化の底にある。だから日本と中国は十分比較研究に値する条件を持っとる訳ですね。それで殷の文化を深く調べてみたいと。 梅 原  その大きな違いは文字があったかないかですわな。日本では文字がない訳ですね。だから民俗学的な方法によって明らかにするしか仕様がない。それで柳田(國男)・折口(信夫・ おりくちしのぶ)がああいう形で日本の古代を明らかにしたんですけどね。 (中略)民俗が似ているんだから、もとより文字学の成果と柳田・折口の民俗学の成果と、大変似てくる訳ですね。 白 川   柳田・折口は事実関係だけでいく訳ですけど、僕は文字を媒介としてみる訳です。 梅 原  文字を媒介にしますと、正確な答が出て来る訳ですよね。(中略)柳田・折口の民俗学は年代を考えることが出来ない。そういう弱みを持っています。先生の学問は文字を媒介としているから、年代を特定することが出来る。 白 川   日本の場合には伝承という形でしか見られないけれども、向こうの場合には文字がありますからね、文字の中に形象化された、そこに含まれておる意味というものを、その時代のままで、今我々が見ることが出来る訳です。だから三千年前の文字であるならば、その三千年前の現実をね、見ることが出来る。 白 川  そう、象形文字であるからそれが出来るんで、これが単なるスペルだったら、見ることが出来ません。 「神聖王と卜占 ー 神と人との交通」 白 川  日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからです。「神聖王」を核とする絶対王朝が出来...

白川静「『字書三部作』の偉業」

「ことばと文字」 白川静『漢字』岩波新書 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。」(2頁) 「文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、『次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった』ということができよう。(3頁)  また、「さらにつづけるとすれば」、「文字は埋もれていた。文字は白川によって蘇生し、文字は神の威光を回復した」「 ということができよう」。 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 本誌には、以下の対談が掲載されている。 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 「対談 ② みえるもの・みえないもの “境”の不思議の出来事 岡野玲子× 白川静」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」  白川静 91歳。  矍鑠(かくしゃく)としている。また、「狂狷の人」である。  それぞれの質問に対し、その都度必要十分な回答がなされる。寸分の隙もない回答に疲弊した。休み、寝みの三日がかりの読書だった。  白川静への興味は尽きない。  一昨日、叔父の四十九日の法要後、 ◇ 白川静『孔子伝』中公文庫 を、珍しく書店で購入した。孔子への関心ではなく、 「第四章 儒教の批判者」 への興味である。 そして、今日中には、 白川静『回思 90年』平凡社ライブラリー が到着することになっている。 これで、白川静の本が、 ◇『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 ◇ 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社 ◇ 白川静『漢字』岩波新書(2冊) ◇ 白川静 『初期万葉論』中公文庫 ◇ 白川静 『漢字百話』中公文庫  計 7(8)冊になった。お目当ては、「神々」のことである。 「『尹』が見えました ー 神が書かせ給うた…」 「対談 ② みえるもの・みえないもの “境”の不思議の出来事 岡野玲子× 白川静」 白 川  そんなもの(神との交通を司る者「尹」)が憑(つ)いとるんかな。僕には見え...

白川静「文字は神であった」

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「ことばと文字」 白川静『漢字』岩波新書 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。」(2頁) 「文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、 原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、『次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった』ということができよう。(3頁)  注意してほしいのは、白川静のいう神とは、キリスト教の「神」ではなく、神話に登場する「神々」のことである。白川は、「神々」を「神」に仮託している。 「一九七〇年の出来事」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 一九七〇年、そのことは、広く世間に知られることとなった。 [ (サイ)]の発見である。 岩波新書としてその年、出版された『漢字』という一冊の本は衝撃的な のデビューとなる。 は一九七〇年を遥かに遡る時代に既に発見されている。 発見者はもちろん「白川静」。 古代中国文学者・白川静は、今はあまりにも「漢字」で有名である。 白川静は或る日、常連であった古本屋で一冊の本と出会う。 『字説』(呉大澂(ごだいちょう))。この本との出会いから時を経ずして、 白川静の甲骨文・金文の研究が始まり、 の大発見となる。 とは? ー そう、ここで語る とは、 今まで「口(くち)」と考えられ、それによって解釈されていた “漢字”を 「口は口にあらず、祝詞即ち神への申し文を入れる “器”である」と説いたことである。 この発見により「口」では解けなかった「漢字の生い立ち」が、 スルスルと、まるでもつれた糸がほぐれるように解けていった。(6-7頁)  ドラマチックで華麗な文章に仕上がっている。  しかし、 『漢字』の最初に出てくる [ ]の説明は、下記のように通り一遍のものである。 「わが国では、文字のことをナといった。漢字は真名(まな)、カナは仮名である。名の上部は肉の省略形で祭肉、下の 形は祝詞を入れる器で、このとき祝詞を奏上して名を告げる。これもまた加入式である。」(20頁)  また、加入式については、 「子が生まれて一定の期間を過ぎる...

「立命館大学 白川静記念 東洋文字文化研究所_白川フォント」

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 一昨夜ブログを書くために、[ (サイ)]の字を探した。しかし、[ ]の字は見当たらず、私がいま使用している[ ]は、画像である。  検索していると、 ◇ 「立命館大学 白川静記念 東洋文字文化研究所」 ◇ 「白川フォント」 ◇ 「白川フォント ダウンロード」 のサイトが見つかった。歩けば棒に、ということか。 以下、 「kanjicafe」 さんからの引用である。 「2016年12月、立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所が、コンピューター上での利用が困難であった甲骨・金文などの古代文字を、Microsoft Word などの一般的な文書作成ソフトで簡単に利用できるようにする文字フォント「白川フォント」を発表しました。  同研究所ホームページによると、「白川フォント」に収録されている古代文字は、常用漢字(2136字)・人名漢字(650字)の中で古代文字が判明している漢字を対象としており、古代文字の全収録数は4391字だそうです。これらのフォントは無償で公開されており、簡単にパソコンにダウンロードすることができます。  また、同ホームページにある「検索システム」を使えば、入力した漢字の文字列から古代文字を表示させたり、入力した漢字一字から古代文字の画像を検索することができます。」  早速私はインストールして恩恵に欲している。文字を意匠として楽しんでいる。 「文字は神であった」。文字は神々しかった、というのは当然の帰結であろう。 粋なはからいである。ご苦労がしのばれる。

白川静「[サイ]の発見」

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2021/02/11、P教授から、 ◇ 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 の画像が添付されたメールが届いた。 表紙には、 文字があった。 文字は 神とともにあり、 文字は 神であった。 と書かれていた。  ドトールコヒーでおくつろぎの様子だった。政治学者にして白川静とは粋人 である。  見栄えのする表紙だった。  返信をする前に、Amazon に注文した。  そして、昨日(2021/02/15)、到着した。 また、裏表紙には、 白川静の日常。 時間は静かに流れ、 淡々と一日を終える。ただそれだけ。ただそれだけ。 それだけを繰り返し、生み出される仕事の確かさ。 また、明日。 また、あした。 と書かれている。 「泣く子も黙る『漢字』の泰斗の学問人生」 白川静著『回思九十年』(平凡社) 狐『日刊ゲンダイ匿名コラム 水曜日は狐の書評』ちくま文庫  白川静を読むには覚悟を要する。身のほどをわきまえないと、あっという間に投げ出したくなる。  当書評 には、吉本隆明の文が引用されている。 「 白川静、一九一〇年生まれ、字書三部作『字統』『字訓』『字通』によって、また『孔子伝』などの名著によって、泣く子も黙る文字学、古代学の泰斗である。  かつて吉本隆明もこう書いた。「彼の主著『説文新義』の数冊は、わたしの手元にあるが、いまだ手に負えないでいる。(略)かくの如き学徒は乏しいかな。彼の仕事を遠望するとき、流石に、少し泣きべそをかきそうになるのを、禁じえない」 (2000・5・24) (116-117頁)  吉本隆明にしてこのありようである。理解のゆきとどかない ところには目をつぶって、とにかく通読することにする。 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社 また、用意が必要になる。 白川 静「序文」 「第一章 初めの物語」 「第二章 からだの物語」 「第三章  (さい)の物語」 「序文」と各章を、 「漢字の「物語」がより克明に描かれるための準備は、ここをもって万全に整いました。」(70頁) と書かれた一文に至るまで熟読する。  準備をおろそかにして、徒手で白川静と対峙するのは向こう水である。  ちなみに、本書の内容紹介には、 「漢字を見る目を180度変えた、“白川文字学”のもっともやさしい入門書!」 との一文がある。理論社の児童書である。 「...

小林秀雄「絵を見るとは,一種の退屈に堪える練習である_実践編」

小林秀雄『偶像崇拝』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 『偶像崇拝』は、多くの話題から成っている。絵画に題材をとり、惜しげもなく展覧された「作品群」は、どれ一つとってみても秀逸で、瞠目するばかりである。 「絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を談じ乍(なが)ら、こういう寡黙(かもく)な認識を全く侮蔑(ぶべつ)している。そしてそれに気附いていない。」(218頁)  小林秀雄の以上の文章を引いたのは、2017/07/21のことである。その際には、 「 けっして他人事(ひとごと)ではなく、小林秀雄の達観である。達見である。」 と書き添えておいた。しかし、その後、 「 解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習」 は顧みられることなく、なおざりになっている。本を開くのがめんどくさいのである。  例えば、白洲正子は、 ◇ 白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫 に、 「私は何かの本からその写真(高山寺の「仏眼仏母(ぶつげんぶつも)像」)を切りぬいて、机の前にはりつけておいたのですが、実物は長いこと見る機会がありませんでした。」(50頁) と書いている。  また、小林秀雄については、 ◇ 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社 に、 「小林がこの絵(ゴッホ《鴉のいる麦畑》)を見たのは、戦後間もない昭和二二年三月、上野で開催されていた「泰西名画展覧会」でのこと。しかし、小林が感動したのは実物ではなく、「見事な複製」だった。小林はこの絵に強く惹かれ、複製画なら手に入れられるだろうかと、しばらくはそのことばかり考えて「上の空」だったという。そんな小林の様子を聞きつけた宇野千代が、どこかで同じ複製画を手に入れ、小林の元に届けてくれた。(左頁)  念願の画を手にした小林の心の中には、「もう一つの欲望」がとりついていた。  「あの巨きな眼は一体何なのか、何んとかして確かめてみたいものだ」。  《鴉のいる麦畑》との出会い、「心に止まって消えようと」しない感動が、小林に大著「...

土門拳「聖林寺 十一面観音立像蓮華座」

聖林寺の十一面観音立像については 、 ◇ 白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫 の口絵の、右側面から撮られた白黒の写真が圧巻である。撮影者は不明である。「単行本」や「愛蔵版」では同じ構図のカラー版 が表紙を飾っている。  闘い終え、満身に創痍を負った勇者が、傷を癒すために深い瞑想に入っているかのように見える。表情は厳しく体躯は剛健そのものである。また、頭上の化仏(けぶつ)は、勇士に捧げられた守護神さながらである。  2019/10/23 に聖林寺を訪れた。 はじめての拝観だった。 観音堂には私ひとりしかおらず、何時間かを過ごした。高邁な御姿を畏まり仰ぎ見ていた。繊美な指の表情に目を凝らしていた。 しかし、 ◇ 土門拳『古寺を訪ねて 奈良 西ノ京から室生へ』小学館文庫 に掲載されている、 ◆「聖林寺 十一面観音立像蓮華座(れんげざ)詳細」 の記憶がすっぽり抜け落ちている。細部ではなく蓮華座全体の記憶がない。 「上を上へと指向し幾重にも重なり合った花弁は、蓮華座を嵩高にしている。肉薄の花弁は、黄葉した葉を寸分のすき間もなく生け たかのような格好である」 (112-113頁)  覚えがないとは重篤である。再起を待って聖林寺へ、そして寺域から神と崇められている三輪山をと思っている。

土門拳「東大寺 毘盧舎那仏」

「21 日本と仏教」 司馬遼太郎『この国のかたち 一』文春文庫   仏教は、飛鳥・奈良朝においては、国家統一のための原理だった。『華厳経(けごんぎょう)』は宗教的というより哲学的な経典で、その経典を好んだ聖武(しょうむ)天皇が、この経典に説かれている宇宙の象徴としての毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(大仏)を尊び、「国の銅(あかがね)を尽くし」て鋳造した。天平(てんぴょう)感宝元年(七四九年)、この天皇が東大寺大仏の前で「三宝(みほとけ)の奴(やっこ)」とみずからを規定して拝跪(はいき)したことほど、奈良朝における仏教と国家の関係を感動的に表現した光景はない。(245頁) 「東大寺と平城京 東大について」 土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫  当文庫には、 「盧舎那仏坐像頭部」 「 盧舎那仏坐像左手」 「盧舎那仏坐像蓮弁毛彫(るしゃなぶつれんべんけぼり)」 の、三葉の毘 盧舎那仏の写真が載っている。  土門拳が大仏さまの大きさを、「振り仰いで見ると、五丈三尺五寸という大きさの螺髪(らほつ)あたりに霞がたなびく感じに想いをめぐらされる」(94頁)と表現しているのはおもしろい。  相貌の凹凸によって 縁取られた細線は高邁な表情を映し出し、白毫(びゃくごう)、螺髪ともに明らかである。また、指は衆生に救いの手を差し伸べているかのようである。さらに、毘盧舎那仏が黄金に輝いていた当時の名残である蓮弁の毛彫には、息づまるような芬々とした「天平の匂いの凄さ」(95頁)が認められる。  「頭部」と「左手」を撮った二枚の写真 には、物を透き通しにする光が差しているかのような明るさがある。「華厳」が描く、光が十重二十重に交錯する世界(「光明遍照」)の中心に坐し、十方に光明を放つ毘盧舎那仏を 思わせる上品な写真に仕上がっている。  大仏さまにこれ以上の尊さを感じたことはなかった。部分が全体を凌ぐことがあることを知った。

土門拳「考える臍」

「薬師寺 金堂 日光菩薩立像腹部」 土門拳『古寺を訪ねて 奈良西ノ京から室生寺へ』小学館文庫  まるまるとふくらんだ下腹、指を突っ込んでくすぐりたくなるような大大としたお臍(へそ)、ここには飛鳥、白鵬の仏像には見られなかった肉体への目ざめが見られる。仏教流伝以来三百年、もはや仏菩薩を神秘的な「蕃神(ばんしん)」として、遠くから畏るおそる伏しおがむ段階は終ったのである。仏菩薩の存在そのものを信ずる心が、その像容の上にも、より確かな触覚的なものを期待しないではいられない欲求を、信仰する側に芽生えさせたことがわかる。(34頁) 「向源寺 十一面観音立像腹部」 土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫  薬師寺金堂日光菩薩(やくしじこんどうにっこうぼさつ)の臍(へそ)には、指を突っ込んでくすぐりたくなるような触覚的な要素が芽生えていたが、そこにはなお古代的な、大々とした造形感覚が息づいていた。 (渡岸寺の)この十一面のそれになると、そういう呑気(のんき)な、古代的な造形感覚は影をひそめてしまっている。一層実人(じつじん)的、写実的になったことはもちろんだが、それ以上に鋭い思想性が脈打つようになった。透鑿(すきのみ)のこまやかな刀法がうかがえるこの臍は、いわば考える臍である。(132-133頁) 「向源寺」はいま「渡岸寺(どうがんじ)」と呼ばれている。拝観時にいただくリーフレットにも「渡岸寺」と記されている。  幾度となく「渡岸寺」を訪ねた。そのたびに何度となく観音さまのお臍を拝見しているはずだが、いっこうに記憶にない。 うかつだった  昨夜 臍が語る深遠な仏教史のお話をはじめてうかがった。  プロ、アマを問わず、カメラマンたちがファインダー越しに見つめているものが気になる。傍にお邪魔することも、時には尋ねることもある。訓練された眼の行方が気になる。  臍は口ほどに物を言った。仏師に手抜かりはなかった。土門拳のお手柄である。  高遠なお話に耳を傾けながら、我が臍はと眺めれば、曲がっているのが目につくばかりで、いたって脳天気な姿をさらしていた。私がみごとに反映されていた。

土門拳「三徳山 三仏寺 投入堂」

「三徳山(みとくさん)三仏寺(さんぶつじ)投入堂 (なげいれどう) 」については、以下の公式サイト、 ◇ 「三徳山 三佛寺」 をご覧ください。また、ぜひ動画をご覧ください。すてきです。 「西仏寺と西国 投入堂登攀記」 土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫  気の遠くなるような急傾斜な地形に即応する懸造(かけづくり)の構造法をとり、同時に空から降ってきたような、あるいはまた、空からエイッとばかりに岩の窪みに投げ込んだように、天空海闊(てんくうかいかつ)な設計で投入堂は建てられている。  細身の角材を、さらに大面取(おおめんど)りして、細く軽快に見せている柱、垂木(たるき)、 軒桁(のきげた)など、懸造の高架建築は、美しさは日本一といってよく、悠然たる断崖に張りつけられている発想自体、これをつくった人々の天才的な閃(ひらめ)きを感じさせるものである。  木造建造物を水や湿気から守るために、急傾斜な地形に即応する懸造の構造法をとる。 (中略)  昔は堂舎三十八宇、寺三千軒と伝えられる三仏寺には、懸造の高架建築はさらにいくつもあったことであろう。三仏寺に拠る平安時代の初期修験者集団は、いわば懸造の高架建築に偏執狂的に憑かれていたのではないか。 (140-141頁)  元結掛堂(もとゆいかけどう)の岩端をまわると、眼前に数十メートル先に豁然と奥の院投入堂が姿をあらわす。あっと息をのむような美しさである。奈良、京都と古寺巡礼を続けて、数十の名建築を見てきたが、投入堂のような軽快優美な日本的な美しさは、ついに三仏寺投入堂以外には求められなかった。わたしは日本第一の仏像は? と問われれば、銅造ならば薬師寺東院堂(やくしじとういんどう)の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)、木造ならば神護寺金堂(じんごじこんどう)の薬師如来(やくしにょらい)立像をあげることは予(かね)てからの持論だが、日本第一の建築は? と問われたら、三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないであろう。ほかに塔ならば薬師寺三重塔、楼閣ならば平等院鳳凰堂をあげなければならないが、三重塔や鳳凰堂は見飽きないともかぎらない。しかし簡素な素木造(しらきづくり)の投入堂は、周囲の懸崖の季節、時間の変化と相まって、見飽きる虞(おそ)れはなさそうである。事実、この後、春夏秋冬、季節ごとに五度も六度も登って、登れば必ず数時間を投入堂...

「古代人の思考はよく『古代人』が聞き分ける」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書  南島で出会った精霊たちは、折口の考えてきた「古代人」の思考そのままの現れ方をした。島の人々は「あの世」が海の彼方(かなた)のニライカナイにある、と考えていた。ニライカナイとは「根の島」という意味で、そのまま「魂のふるさと」「魂の根源の場所」を意味していた。人が亡(な)くなると、その魂はニライカナイに戻っていく。またそこは生命の根源の場所で、ニライカナイにつながっていないと、「この世」は生命の輝(かがや)きをなくしていく。しかし、生きている人間はめったなことでは、この海の彼方の「あの世」に行くことはおろか、触れることすらできない。だから島の人々は、「あの世」からの来訪者である「まれびと」の到来(とうらい)を待ち望んでいるのである。  仮面を着装し、植物で全身をおおった精霊が、いかにも「まれびと」らしく、一年に一度だけの決まった日に、村の裏にある洞窟(どうくつ)や森の奥から、島の人々が緊張(きんちょう)しながら待ち受ける神聖な広場にあらわれてくる。ざわざわざわざわとからだを揺(ゆ)すり、踊(おど)るように舞(ま)うように、「まれびと」が目の前にあらわれると、人々の興奮は頂点に達し、精霊と一体になった人々の心のなかには、「あの世」との通路がひらかれる。生きている者と死者たちの霊とは一体となり、過去と現在と未来がひとつになったような、不思議な時間の感覚があたりを包み込む。(47-50頁) ◇ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。  折口信夫は「目撃」したのである。そして、 「わたしはいまの世で成功する者とはなりえない人間だ。なぜならわたしは精霊とともに生きる一人の古代人であるのだから」(60頁) と、「一人の古代人」を自任する折口は、古代人さながらに霊気に当たり、古代人さながらに精気に浸ることによって、すべてを身にひき受けたのである。 「まれびと」は折口信夫の詩人的な幻想(げんそう)などではなく、たしかに実在していたのだ。  沖縄諸島への旅から戻った折口信夫は、矢継(やつ)ぎ早(ばや)に、日本の文学と芸能の「発生」を論じる、重要な論文を発表していった。「まれびと」はこうして、日本人の神観念の原型をしめしているばかりではなく、折口信夫の学問と思想の全体を...

「明恵上人における徒者(いたづらもの)」

白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫  「高山寺に住んでからの明恵は、変ないい方ですが、だんだん透き通って行くように見えます。」(124頁)  明恵上人が栂尾高山寺に移ったのは建永元年(1206)、34歳のときのことです。  以下、明恵上人の言葉です。  『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり』(遺訓) (124頁)  『我れ常に志ある人に対していふ。仏になりても何かせん。道を成じても何かせん。 一切求め心を捨てはてて、徒者(いたづらもの)に成り還りて、ともかくも私にあてが ふことなくして、飢え来たれば食し、寒来れば被(かぶ)るばかりにて、一生はて 給はば、大地を打ちはづすとも、道を打ちはづすことは有るまじき』 (125頁)  『生涯此の如く徒者に成り還らば豈(あに)徒(いたづら)なることあらんや』(遺訓) (125-126頁)  仏は仏であってさえ、仏法は仏法であってさえ、また道は道であってさえ「何かせん」。そして、それらを方便であると抛擲した明恵の慧眼には、瞠目するばかりである。  「道元の仏法は、彼一人のものに終ったのです。同じことが、明恵についてもいえます。『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり』という極限まで行った人間には、宗旨ははおろか、仏法もなく、一人の後継者もつくらなかった。わずかに傍に仕えた弟子達が、師を偲んで、その生前の姿を伝えただけで、世間的な「仕事」とか「事業」と呼ばれるものは何一つ遺してはいない。そうかといって、単なる聖(ひじり)でもない。しいていえば、彼が此世に遺したのは、人間的な魅力という、茫然とした一事につきる。もし、仏が宇宙の象徴であり、釈迦がその具体的な現われなら、ただ存在するだけで満ち足りた明恵上人は、正しく「釈尊の遺子」にふさわしい生涯を送ったといえるのです。」(107頁)  なお、173項には、 「すき通った精神は」という表現がみられます。 「明恵には彼と我、昔と今の境がまったくない。すき通った精神は、時に肉眼では見えないものまで見てしまったようです。」  そしてこの後には、二つの興味深いエピソードが紹介されています。彼我の境も、今昔も彼此の領域も曖昧になった明恵上人の「すき通った精神」に映った景色とそれに対する明恵の弁については、...

TEWEET「立春の日に、陣中お見舞い申し上げます」

「学会年報の論文」の執筆もいよいよ佳境に入ったことと拝察しております。  今日は立春ですね。昨年にひき続き春の胎動は、コロナ禍の蔓延下に、また日々報道される目に余る政争を前にかき消されがちですが、地球の運行がコロナ禍、また人事に邪魔だてされるはずもなく、暗雲立ち込めるうちにも、その胎動を聞き分けようと耳を澄ませています。 緊急事態宣言が延長されましたね。 くれぐれもお大事になさってください。 ご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 長らくの音信不通、申し訳なく思っております。 先週の金曜日からずいぶん楽になりました。 長い間雲隠れしていました。 いよいよお薨れか、と思ったりもしていました。 一陽来復。 プー太郎めは、明恵上人に倣いて、「徒者(いたづらもの)」になることを決心しました。 修行です。修養です。逆行です。顛倒です。 ご心配深謝しております、とYさんにはお伝えしてください。 早々のご丁寧なご挨拶、どうもありがとうございました。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸:大いに筆をふるってくださいね。

白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫

◇ 白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫 をつい今し方読み終えた。読み通したのははじめてであった。 「明恵上人は、華厳宗にも、真言密教にも、禅宗にも通じていたが、ほんとうに信じていたのは、仏教の宗派ではなく、その源にある釈迦という人間ではなかったか。」(164-165頁) 「釈迦という人間」とともにあることだけを願った、上人の偽らぬ美しい生き方と、また作品中には、白洲正子の理にかなった読みと丹誠を凝らした表現が随所に見うけられ、清々しい読後感を抱いた。  体調不良の合間を縫っての読書体験が幸いしてか、終始しっとりした時間に身を委ねての読書だった。  根を詰めることからは少時離れて、 ◇ 芸術新潮 1996年11月号 『白洲正子 愛の明恵上人』 を繰りながら、明恵上人の足跡を訪ね、上人の見つめていたものに目を凝らし、余情・情景に浸ろうと思っている。 「韋駄天お正」の取材記である。疾走する「お正」を尻目に、悠然と置いてけぼりを食おうと泰然と構えている。 以下、 白洲正子「明恵上人_まとめて」 ◇ 「今年のはじめての雑誌です。芸術新潮『白洲正子 愛の明恵上人』です」 ◇  白洲正子「たえず『見ること』をしいた過酷な存在」 ◇  梅雨晴の間に間に_「西行と明恵 その一」 ◇  梅雨晴の間に間に_「西行と明恵 その二」 です。

最相葉月「中井久夫『災害がほんとうに襲った時』 電子データの公開および無償頒布につきまして」

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から26年が経ちました。「災害関連死」も含めて、6434人の方が亡くなられました。  中井久夫先生には、以下の著作があるのは承知していますが、そのままになっています。 ◇ 中井久夫『災害がほんとうに襲った時 ー 阪神淡路大震災50日間の記録』みすず書房 ◇ 中井久夫『復興の道なかばで ー 阪神淡路大震災一年の記録』みすず書房 負い目もあって検索していますと、 「阪神大震災のとき / 精神科医は何を考え、/ どのように行動したか」 「中井久夫「災害がほんとうに襲った時」 電子データの公開および無償頒布につき まして(最相葉月)」 と題されたサイトに出会いました。 http://lnet.la.coocan.jp/shin/shin00.html 以下、 中井久夫「災害がほんとうに襲った時」 http://lnet.la.coocan.jp/shin/shin01.html http://lnet.la.coocan.jp/shin/shinall.html http://lnet.la.coocan.jp/shin/mae.epub の無料頒布先です。 無料頒布は、 「まことに僭越と思いつつ無償配布のご提案を中井氏にいたしましたところ、「かまいません」と瞬時にご快諾いただきました。版元のみすず書房の担当編集者である守田省吾氏のご協力も得て、ここに公開させていただきます。一人でも多くの皆様に届きますよう、心当たりの方がおられましたらご案内いただけると幸いです。今、困難な任務に就いておられる皆様を心より応援いたしております。(2011年3月20日最相葉月)」 の経緯を経てなったものです。  26年目の今日、貴重な資料として大切に読ませていただきました。

井筒俊彦「異文化間対話の可能性をめぐって」

 2021/01/13 の夕方発熱、翌日内科受診。叔父の葬儀、成人式への参列ということもあってか、問診、検査、診察、投薬、会計等々、すべてが車中で行われました。隔離覚悟でしたが、風邪との診断で事なきを得ました。 以後、夢現のうちに、 ◇ 井筒俊彦 『意味の深みへ ー東洋哲学の水位ー』岩波文庫 「文化と言語アラヤ識 ー異文化間対話の可能性をめぐってー」 「意味分節理論と空海 ー真言密教の言語哲学的可能性を探るー」 ◇ 井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー東洋哲学のためにー』岩波文庫 「コスモスとアンチコスモス ー東洋哲学の立場からー」 を読みました。  四日分の薬は底をつき、いまだに病状は一進一退を繰り返していますが、スタッフの方たちに極度の緊張を強いる受診は見合わせ、売薬ですまそうか、と考えています。 「文化と言語アラヤ識 ー異文化間対話の可能性をめぐってー」 井筒俊彦『意味の深みへ ー東洋哲学の水位ー』岩波文庫  異文化の接触、異文化の衝突が、世界の至るところで惹起しつつある現代世界の混迷状態を、人間文化の危機(クライシス)として受けとめる人がある。たしかに危機には違いない、それが進んでいく方向によっては。だが、それはまた、個別文化の新生へのチャンスでもあるのだ。  異文化の接触とは、根源的には、異なる意味マンダラの接触である。我々が既に見たように、意味マンダラは、特にそのアラヤ識的深部(「言語アラヤ識」)において、著しく敏感なものだ。刻々に消滅し、不断に遊動する「意味可能体」は、それ自体において既に、本性的に、かぎりない柔軟性と可塑的とをもっている。まして、異文化の示す異なる意味マンダラに直面すれば、鋭敏にそれに反応して、自らの姿を変える。だから、異文化の接触が、もし、文化のアラヤ識的深部において起るなら、そこに、意味マンダラの組みかえを通して、文化テクストそのものの織りなおしの機会が生じることはむしろ当然のことでなくてはならない。文化の新生。新しい、より包括的でより豊富な、開かれた文化の誕生する可能性が成立する。そこにこそ、我々は、異文化接触の意義を見るべきなのではないか。そして、それこそ異文化間対話の究極的な理想像であるべきなのではないか、と私は思う。(97頁) 井筒俊彦によって保証された「異文化間対話の可能性」の保証は頼もしい。 また、 「対談 二十世紀...

「2021年 読書事始め」

 2021/01/07 の昼過ぎに叔父の訃報に接し、その翌日、翌々日には通夜式、葬儀に参列しました。享年87歳でした。読経を音楽を聞くように聞いていました。  2021/01/10 には成人式に参加し、また式後には後片づけを手伝い ました。成人式を還暦の通過儀礼と位置づけていましたが、来賓の方々、また祝電の冗長な挨拶に辟易し、思いはかないませんでした。  そして、その翌日には「ラグビー大学選手権決勝 早稲田大学×天理大学」を、テレビのない私は、ヤマダ電機で観戦しました。65inch の大画面で見る  4K放送は鮮やかで、迫力がありました。ボールの支配率が得点(28-55)を左右した試合でした。試合巧者の天理大の活躍ばかりが目につきました。終了間際の早稲田のワントライワンゴールが救いでした。 2021/01/05 に注文した以下の3冊が、2021/01/07 に届きました。 ◇  井筒俊彦『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』岩波文庫 ◇  井筒俊彦 『意味の深みへ ー東洋哲学の水位ー』 岩波文庫 ◇ 井筒俊彦『 コスモスとアンチコスモス ー東洋哲学のためにー』 岩波文庫  元号が改まり、新年を迎え、井筒俊彦を、手元にある全集本ではなく、新たに岩波文庫で読もうと思いそろえました。  大学選手権後の夕闇迫るころを、今年の読書事始め、としました。 ◇『 コスモスとアンチコスモス ー東洋哲学のためにー』 「事事無碍・理理無碍 ー存在解体のあとー」 を読み終え、いま、 ◇ 『意味の深みへ ー東洋哲学の水位ー』 「意味分節理論と空海 ー真言密教の言語哲学的可能性を探るー」 を読んでいます。幾度目かの読書で理解が 思いのほか はかどっています。  慶應義塾大学出版会さんの全集本よりも、岩波文庫の方が私の肌には合っているのかもしれません。いたって軽薄ということです。  井筒俊彦の精緻な哲学の文章に触れるのは愉しく、読み継ぎます。先を急ぎます。

TWEET「つかず離れず」

一昨日 P教授から以下の歌が送られてきた。 掻き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり 慈円  「空観」を平易な言葉で詠んだ慈円の実力のほどを思う。「柴の庵」は「空」の一つの結節点である。  検索するうちに、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』のなかで「古歌」として引用していることを知り、原文に当たったが、谷崎が「古歌」を引いた意図が解らず、そのままにしてある。急いで理解する必要はないと思っている。 つかず離れずの距離感が肝要だとわきまえている。自ずから解かる時期がくるだろう。  神出鬼没、変幻自在のP教授についても然りである。特にこの頃では、徒然の手遊びの対象となっている 、といえば失礼であろうか。

TWEET「美、その明らかなること」

昨年来、 ◇『山と溪谷 大特集 富士山 2019 No.1015 11』山と溪谷社 を読んでいる。  月刊誌「山と溪谷 」は広告が多く、ときに「山と広告」と揶揄されるが、「大特集 富士山」はいつになく読みごたえがある。  私の専らの関心事は、 「信仰 霊峰としての歴史」 にあるが、思いがけずも、たとえば、 ◇ 葛飾北斎「富士越龍(ふじこしのりゅう)」 というも、 ◇ 伝雪舟「 富士美保正見寺図(ふじみほのせいけんじず)」 というも、 ◇ 棟方志功「富嶽頌 赤富士の柵(ふがくしょう あかふじのさく )」 というも、また、 ◇ 横山大観「耀八紘(ようはっこう)」 を見る につけ、美とは明らかなることである、とつくづく思う。  富士の裾野は広く、この先に広がる沃野を楽しみにしている。

「頌春の候_小林秀雄『バカ、自分のことは棚に上げるんだ!』」

「小林秀雄氏」 白洲正子『夢幻抄』世界文化社  そんなことを考えていると、色んなことが憶い出される。はじめて家へみえたとき、 ー その頃は未だ骨董の「狐」が完全に落ちてない時分だったが、「骨董屋は誰よりもよく骨董のことを知っている、金でいえるからだ」という意味のことをいわれた。私にはよくのみこめなかったが、少時たって遊びに行ったとき、沢山焼きものを見せられ、いきなり値をつけろという。 「あたし、値段なんてわかんない」 「バカ、値段知らなくて骨董買う奴があるか」  そこで矢つぎ早に出される物に一々値をつけるハメになったが、骨董があんなこわいものだとは夢にも知らなかった。その頃小林さんは、日に三度も同じ骨董屋に通ったという話も聞いた。  あるとき、誰かがさんざん怒られていた。舌鋒避けがたく、ついに窮鼠猫を嚙むみたいに喰ってかかった。 「僕のことばかし責めるが、じゃあ一体、先生はどうなんです?」 「バカ、自分のことは棚に上げるんだ!」  最近はその舌鋒も矛(ほこ)をおさめて、おとなしくなったと評判がいい。 (15-26頁)  初春の誠に慶ばしい一篇である。

TWEET「ごまめの歯ぎしり」

 このひと月あまり、煤払いをしています。毎日塵埃にまみれています。塵芥(ちりあくた)の類と呼ばれるもまたよし、と思っています。  その間乱雑に読み継ぎ読み継ぎ、いま、 ◇『山と溪谷  大特集 富士山 2019 No.1015 11』山と溪谷社 ◇ 信濃川日出雄『山と食欲と私 9(鮎美の富士山リベンジ編 ①~④)』新潮社 にたどり着きました。一年前と同じ地平に立ち、威容を仰いでいます。  十六夜の月を拝しながら、ごまめの歯ぎしりです。

TWEET「寒夜の明月」

 昨夜は満月でした。明月を拝しました。 寒夜の月は凛々しく、端正でいいですね。  いま氏神さまである 「豊麻神社」に、神札を納め、参拝してきました。  十六夜の月を拝しながら、行く年来る年に思いを馳せます。  来たる年は、「辛丑(かのとうし)」です。  還暦です。  一巡します。

「いよいよ神仏混淆か」

 2020/11/01 に「伏見稲荷大社」を詣で、 2020/11/17 には「伊勢神宮」を参拝しました。その際には、 市内の書店「BOOK SQUARE ララパーク店」さんで、 ◇ 神宮司庁 編・著『図解 伊勢神宮』小学館 「奉祝 令和 神宮司庁広報室の神職たちが執筆・編集した初めての「神宮」読本」 を購入し、帰宅後、 ◇ 司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫 「神 道 (1)〜(7) 」 ◇ 中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書 を読みました。  そして、一昨日には、「神宮大麻」と氏神さまである「豊麻神社の神札」を本箱の中にお祀りしました。いよいよ我が家の「神仏混淆」かと思っています。  清らかなることは慶こばしきことかな、と思っております。

TWEET「法螺貝ショップ」

豊橋市内にある 法螺貝販売、法螺貝専門店の 「穂の国」 さんが、いかがわしい店でないことを一昨日知りました。法螺貝にも、店主さんの人となりにも、出入りするお客さんの人柄にも興味がありますが、敷居が高い、というのが本音です。

森武史『熊野修験』月兎舎

◇ 森武史『熊野修験』月兎舎 が一昨日届きました。 「那智四十八滝・大峯奥駈・葛城二十八宿 山伏とともに20年。峰を駈け、渓に分け入り 岩によじ登って捉えた熊野の自然と修験者。 熊野修験再興33周年を記念した写真集です。」 総本山金峰山寺管長 五條良知 「即今只今(そっこんただいま)を切り取った写真集は次世代への道しるべとなるでしょう。 熊野修験に導かれ、助けられた方々のお悦びの声が聞こえてきます。」 熊野修験正大先達・那智山青岸渡寺副住職 髙木亮英 「熊野修験は山林抖擻(さんりんとそう)を通して自己を見つめ直す擬死再生の場です。 そこで得た霊験を他者にほどこしてこそ菩薩行の境地と言えましょう。」   殊に、髙木亮英大先達の 立ち姿、歩く姿、また合掌する姿は、美しく威厳に満ちている。こういったあり方もできるのか、と我が身をふりかえっている。 K大のP教授の「暗黙のご指導とご鞭撻の旅」のつれづれ / 覚書 復習の旅を続けます。 1996年 / 春 「開塾を目前に控え、K大のP教授とご一緒した、古社寺巡拝の旅」 ◇ P教授にご案内していただいた、大阪市の緒方洪庵先生の「適塾」 ◇ 奈良市の志賀直哉旧邸 ◇ 法隆寺・中宮寺・東大寺・興福寺・薬師寺・唐招提寺・石舞台古墳 ◇ 広隆寺・龍安寺・清水寺・東寺・同志社大学 2006年 / 春 「紀ノ国と巡拝の旅」 ◇ 熊野古道 ◇ 熊野三山めぐり ◇ 熊野速玉大社の参詣の折に立ち寄った佐藤春夫記念館 ◇ 室生寺での一喝 (土門拳「走る仏像」) ◇ 和歌山県白浜町の南方熊楠記念館 ◇ 吉野山での一泊 ◇ 三重県松坂市の本居宣長旧宅・本居宣長記念館 ◇ 松坂市の「和田金」さんでは極上の松坂牛の「すき煮」ではなく、本当の「すき焼き」をご ちそうになり帰路につきました。 その後、P教授はひとり、「大峯奥駈」に出かけられました。

「2017年 南方熊楠 生誕150年_まとめて」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書  今回、折口信夫の思想と人生について自由に語る機会を得て、わたしはいままで自分が読み続け考え続けてきた折口信夫の学問をまるごとつかみとり、その中から二十一世紀の日本人の思想として生き続けるにちがいないと思われる、彼(かれ)の思想のエッセンスを取り出すこころみをおこなってみようと考えた。いままで自分の中に貯蔵され続け、長い時間をかけて変身と発酵(はっこう)をへた、わたしが読み取った「折口信夫」の核心(かくしん)部分に、はじめてひとつのまとまりをあたえて語り出してみようと思ったのである。  柳田国夫(やなぎだくにお)、折口信夫、南方熊楠(みなかたくまぐす)の三人の巨人(きょじん)の頭脳と心が生みだしたものは、日本人に残されたもっとも貴重な宝物である。わたしはこの宝物をしっかりと護(まも)り未来に伝える水中の龍(りゅう)でありたいと願う。(8-9頁)  以下、2017/12/23 に書いた ブログです。  青色の文字列にはリンクが張ってあります。クリック(タップ)してご覧ください。 松居竜五,ワタリウム美術館 [編]『クマグスの森ー 南方熊楠の見た宇宙』(とんぼの本)新潮社 が届きました。「略年譜」をみているうちに、今年が南方熊楠の生誕150年に当たることに気がつきました。漱石、子規に次いで三人目です。危うく見過ごすところでした。 以下、「南方熊楠 生誕150年 まとめて」です。 ◇ 「貴人なるお二方 西江雅之先生と平野威馬雄氏が語る『南方熊楠という博覧強記の異人』 他一題」 ◇  日本最大の「枠外の人」、南方熊楠の「珍しい羞恥心」 ◇  南方熊楠「神社合祀に反対し投獄される」 ◇  南方熊楠「もう一つの森」 ◇ 「南方熊楠という博覧強記の異人_旅の覚書」 ◇  白洲正子「南方熊楠にみる浄愛」 ◇ 「白洲正子と小林秀雄と南方熊楠と」 下記、 「夏目漱石 生誕150年_まとめて」 「正岡子規 生誕150年_まとめて」 です。

折口信夫「冬至の日に,精霊ふゆる『ふゆ』」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書  とても興味深いことに、「まれびと」論や芸能発生論ではもっとも重要な季節が冬至(とうじ )と夏至(げし)の季節におかれていたのに対して、『死者の書』( 折口信夫著) で描きだされた新しい他界論では、春分と秋分の季節がもっとも重要な季節になっている。第一章で述べたように、冬至と夏至には、昼と夜の長さが極端(きょくたん)にアンバランスになり、そのときを選んで死者の霊が、生者の世界を大挙して訪問してくるのである。そのとき「あの世」との通路が開いて、仮面などで姿を隠(かく)した精霊が、舞(ま)いながら「この世」にあらわれてくるのだった。(86頁) ◇ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。 精霊ふゆる「ふゆ」 多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中しておこなわれる。  この冬至と夏至をはさんで、「古代人」は精霊(スピリット)をこの世にお迎(むか)えする祭りをおこなう。夏至をはさんだ夏のお祭りの期間には、死霊(しりょう)のかたちをとった精霊の群れが、生きている者たちの世界を訪問してくる。死霊には、まともな死に方をして、しかも子孫たちから敬われつづけている先祖の霊もいれば、横死をとげた幼い子供のうちに亡(な)くなってしまった者たちの浮かばれない霊もいる。そういう多彩(たさい)な死霊たちが大挙して戻ってくるのを、「古代人」は心をこめてお迎えしようとしたのである。  その夏の時期の精霊来訪の祭りは、のちのち仏教化されて、お盆(ぼん)の行事となったけれど、そこには「古代人」の思考の原型がはっきり残っている。お盆の行事としておこなわれる「盆踊(おど)り」を見てみよう。 (中略)  冬至をはさんだ一、二か月は、その昔は霜月(しもつき)と呼ばれて、やはり精霊を迎える祭りがおこなわれた。しかし冬の期間におこなわれるこの祭りでは、夏の精霊迎えの祭りとはちがった考えが支配的だった、というのが折口信夫の考えである。この期間、精霊の増殖と霊力の蓄(たくわ)えがおこなわれるのである。折口信夫の考えでは、「冬(ふゆ)」ということばは、古代の日本語に直接つながっている。「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。  冬の期間に「古代...

司馬遼太郎「言挙げせぬ神々」

司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫 「神 道 (7) 」  神道という用語例は、すでに八世紀の『日本書紀』にある。  シントウと澄んでよむならわしは、平安時代にはじまるという。  理由は、日本語は元来、清音をよしとしてきたという程度だったろう。「いろはにほへと」も、すべて清音である。和歌も、明治以前はすべて清音だけで表記されてきた。古音は、一般に澄む。  神道に教義がないことは、すでにふれた。ひょっとすると、神道を清音で発音する程度が教義だったのではないか。それほど神道は多弁でなく、沈黙がその内容にふさわしかった。  『万葉集』巻第十三の三二五三に、  「葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国は神(かむ)ながら、言挙(ことあ)げせぬ国」  という歌がある。他にも類似の歌があることからみて、言挙げせぬとは慣用句として当時ふつうに存在したのにちがいない。  神(かん)ながらということばは、 “神の本性のままに” という意味である。言挙げとは、いうまでもなく論ずること。  神々は論じない。アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれぞれ神である以上は、山は山の、川は川の本性として ー神ながらにー 生きているだけのことである。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない。  例としてあげるまでもないが、日本でもっとも古い神社の一つである大和の三輪山は、すでにふれたように、山そのものが神体になっている。山が信徒にむかって法を説くはずもなく、論をなすはずもない。三輪山はただ一瞬一瞬の嵐気(らんき)をもって、感ずる人にだけ隠喩(メタフア)をもって示す。(66-68頁) 「神 道 (4) 」  平安末期に世をすごした西行(1118〜90)も、(伊勢神宮に)参拝をした。 「何事(なにごと)のおはしますをば知らねども辱(かたじけな)さの涙こぼるゝ」  というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった。  むろん西行は若いころ北面の武士という宮廷の武官だったし、当代随一の教養人でもある上、伊勢では若い神官たちに乞われて歌会も催しているのである。 “何事のおはします” かを知らないどころではなかった。(44頁)  神道のおよその変遷を知った。  ...

TWEET「時間が頭ごしに」

師走です。 時間が頭ごしに過ぎ去ってゆきます。 いまから年末の読書週間とします。今年の帳じり合わせに躍起になっています。 まず、 ◇ 司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫   「神 道 (1)〜(7) 」 を読み直すことからはじめます。一昨日読み終えましたが要領を得ず、再読、三読を強いられています。伊勢詣後、神様のことばかりが気になっています。 納得がいくまで読みます。

TWEET「留守と知れ」

るす 高橋新吉 留守と言へ ここには誰も居らぬと言へ 五億年経ったら帰って来る 死出の旅といい、行き倒れといい、また野ざらしというも、我ひとりの道行きである。 留守と知れ ここには誰も居らぬと知れ 亡き者と思へ 邪魔立てはするな 人は食い物ではない お願いですから、ひとりにしてください。

TWEET「いざ鎌倉へ」

東京在住の甥から、「いざ鎌倉へ」のひと声がかかるのを待っている。 はじめに、 「東慶寺」 にて、小林秀雄、釈宗演、鈴木大拙、西田幾多郎、和辻哲郎、岩波茂雄のお墓をお参りして、 「円覚寺」 にて、井筒俊彦の墓前で合掌する。 また、 「建長寺」 にて、 「建長寺法堂の天井画『雲龍図』」 をながめ、 「鶴岡八幡宮」 「長谷寺」 そして、 「日本近代文学館」 と、茅ヶ崎市にある、 「開高健記念館」 「開高健記念館 開高健オリジナルグッズ」 へと向かう。  シェルターを二つ並べての野営以外は、別行動がいいと思っている。その辺りは臨機応変にと考えている。 いま手元に、 ◇『新版改訂 鎌倉観光文化検定 公式テキストブック』 ◇『歴史を知れば3倍たのしい 鎌倉の古社寺』淡交ムック ◇ 原田寛『知れば楽しい古都散策 鎌倉謎解き街歩き』じっぴコンパクト新書 の三冊がある。 なお、Dr.T 推薦の、 ◇ 小川糸『ツバキ文具店』幻冬舎文庫 と、以下の二冊を購入した。 ◇ 小川糸 『キラキラ共和国』 幻冬舎文庫 ◇『ツバキ文具店の鎌倉案内』 幻冬舎文庫 小説は冗長で眠くなるので、代わりに読んでもらった。

TWEET「余滴_2020年秋 古社寺巡拝後」

 合掌するたくさんの姿を、行く先々で目の当たりにしました。  帰宅後早速、仏壇の手入れをし 、仏間をきれいにしました。  そして、時に緊張した心身を和らげるために、日の高いうちから入浴するようになりました。P教授曰く “甘露” です。心身を労わることを覚えました。

「2020年秋 私の古社寺巡拝_覚書_3/3」

以来、神様のことがしきりに気になっています。 2020/11/16(月) 午後 出立。 伊勢湾フェリーで、伊良湖から鳥羽へ向かいました。 洋上で潮風に吹かれたのは久しぶりのことでした。 伊勢市内の書店「BOOK SQUARE ララパーク店」さんで、 ◇ 神宮司庁 編・著『図解 伊勢神宮』小学館 「奉祝 令和 神宮司庁広報室の神職たちが執筆・編集した初めての「神宮」読本」 に出会ったのは幸運でした。 2020/11/17(火) 「伊勢神宮 内宮」 「伊勢神宮 外宮」 ほとんどの時間を「せんぐう館」で過ごしました。 2020/11/18(水) 「室生寺」 「大野寺・弥勒磨崖仏」 2020/11/19(木) 「本居宣長記念館」 「本居宣長之奥墓(おくつき) 」 2020/11/20(金) 帰路  伊勢湾フェリーで、荒れ模様の湾内を鳥羽から伊良湖へ向かいました。神島の島影を認めると旅の終わりを感じました。 白波の寄せる恋路ヶ浜が見たくて、伊良湖ビューホテルに立ち寄り帰宅しました。 「室生寺にて」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫 電車で行くと、近鉄室生口で降り、そこから室生川を六キロばかりさかのぼる。駅の近くには、磨崖仏で有名な大野寺があり、清らかな河原をへだてて、切り立った断崖に、みごとな石仏が刻まれている。この寺には、大きなしだれ桜が二本あって、春はこまやかな花をみっしりつけ、紅(くれない)の垂簾の奥ふかく、ほのかに仏が在す気配は、たとえようもなく、優美である。  春もいいが、秋も一段と風情がある。ある晩秋の夕暮、室生への帰りに立ちよったとき、落日の斜光の中に、全身がくっきりと浮かび上がり、冷たい石の肌に、山の紅葉が反映して、「弥陀来迎の図」を拝む思いがした。おそらくあのような光景は、一生に一度のものに違いない。それは険しい絶壁に向かって、仏を彫ろうと決意した人の、発願の場に立会うような心地であった。(110-111頁)

「プー太郎は暇そうだけど、気苦労もありますか?」

「プー太郎は暇そうだけど、気苦労もありますか?」 とのP教授からの問いに、 「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」 と応えておきました。 山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫  先日、漱石の『吾輩は猫である』を読んでいると、ほとんどラストに近いあたりで、次の一行が目にふれた。  呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。  この小説を読むのは三度目である。一度目は高校生のころ、二度目は二年ほどまえのこと。一度目の高校時代ははるかな昔のことで、みごとなくらい内容の記憶は失われているから除外するとして、二度目に読んだとき、この一行には気がつかなかった。 (中略)  前回は気がつかなかった。そのときはたぶん、右の痛切ともいえる一行は目をかすめただけである。読んで感銘を受けたけれども忘れてしまったというのではない。目には映っているが印象をとどめない。なぜだろうか。答えはきまっている。速く読んだからだ。(11-12頁) 下記、 山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫(全) です。

TWEET「いざ茅ヶ崎へ」

「いざ 茅ヶ崎へ」とは、茅ヶ崎市にある 「開高健記念館」 へ、という意味です。 「開高健記念館 開高健オリジナルグッズ」 のサイトで、 ◇ 濱野ちひろ『 聖なるズー』集英社 「犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。2019年第17回開高健ノンフィクション賞受賞作。」 を知り、昨日注文しました。明日到着の予定です。  何やらおかしな気分がしています。不穏な状態の内にあります。