土門拳「考える臍」

「薬師寺 金堂 日光菩薩立像腹部」
土門拳『古寺を訪ねて 奈良西ノ京から室生寺へ』小学館文庫
 まるまるとふくらんだ下腹、指を突っ込んでくすぐりたくなるような大大としたお臍(へそ)、ここには飛鳥、白鵬の仏像には見られなかった肉体への目ざめが見られる。仏教流伝以来三百年、もはや仏菩薩を神秘的な「蕃神(ばんしん)」として、遠くから畏るおそる伏しおがむ段階は終ったのである。仏菩薩の存在そのものを信ずる心が、その像容の上にも、より確かな触覚的なものを期待しないではいられない欲求を、信仰する側に芽生えさせたことがわかる。(34頁)

「向源寺 十一面観音立像腹部」
土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫
 薬師寺金堂日光菩薩(やくしじこんどうにっこうぼさつ)の臍(へそ)には、指を突っ込んでくすぐりたくなるような触覚的な要素が芽生えていたが、そこにはなお古代的な、大々とした造形感覚が息づいていた。
 この十一面のそれになると、そういう呑気(のんき)な、古代的な造形感覚は影をひそめてしまっている。一層実人(じつじん)的、写実的になったことはもちろんだが、それ以上に鋭い思想性が脈打つようになった。透鑿(すきのみ)のこまやかな刀法がうかがえるこの臍は、いわば考える臍である。(132-133頁)


「向源寺」はいま「渡岸寺(どうがんじ)」と呼ばれている。拝観時にいただくリーフレットにも「渡岸寺」と記されている。
 幾度となく「渡岸寺」を訪ねた。そのたびに何度となく観音さまのお臍を拝見しているはずだが、いっこうに記憶にない。
 昨夜 臍が語る深遠な仏教史のお話をはじめてうかがった。うかつだった。
 プロ、アマを問わず、カメラマンたちがファインダー越しに見つめているものが気になる。傍にお邪魔することも、時には尋ねることもある。訓練された眼の行方が気になる。
 臍は口ほどに物を言った。仏師に手抜かりはなかった。土門拳のお手柄である。
 高邁なお話に耳を傾けながら、我が臍はと眺めれば、曲がっているのが目につくばかりで、いたって脳天気な姿をさらしていた。私がみごとに反映されていた。