「明恵上人における徒者(いたづらもの)」
白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫
「高山寺に住んでからの明恵は、変ないい方ですが、だんだん透き通って行くように見えます。」(124頁)
明恵上人が栂尾高山寺に移ったのは建永元年(1206)、34歳のときのことです。
以下、明恵上人の言葉です。
『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり』(遺訓)(124頁)
『我れ常に志ある人に対していふ。仏になりても何かせん。道を成じても何かせん。一切求め心を捨てはてて、徒者(いたづらもの)に成り還りて、ともかくも私にあてがふことなくして、飢え来たれば食し、寒来れば被(かぶ)るばかりにて、一生はて給はば、大地を打ちはづすとも、道を打ちはづすことは有るまじき』(125頁)
『生涯此の如く徒者に成り還らば豈(あに)徒(いたづら)なることあらんや』(遺訓)(125-126頁)
仏は仏であってさえ、仏法は仏法であってさえ、また道は道であってさえならない。そして、それらを方便であると抛擲した明恵の境地や、無作為、無頓着、またその無関心ぶりは爽快である。
「道元の仏法は、彼一人のものに終ったのです。同じことが、明恵についてもいえます。『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり』という極限まで行った人間には、宗旨ははおろか、仏法もなく、一人の後継者もつくらなかった。わずかに傍に仕えた弟子達が、師を偲んで、その生前の姿を伝えただけで、世間的な「仕事」とか「事業」と呼ばれるものは何一つ遺してはいない。そうかといって、単なる聖(ひじり)でもない。しいていえば、彼が此世に遺したのは、人間的な魅力という、茫然とした一事につきる。もし、仏が宇宙の象徴であり、釈迦がその具体的な現われなら、ただ存在するだけで満ち足りた明恵上人は、正しく「釈尊の遺子」にふさわしい生涯を送ったといえるのです。」(107頁)
なお、173項には、「すき通った精神は」という表現がみられます。
「明恵には彼と我、昔と今の境がまったくない。すき通った精神は、時に肉眼では見えないものまで見てしまったようです。」
そしてこの後には、二つの興味深いエピソードが紹介されています。彼我の境も、今昔も彼此の領域も曖昧になった明恵上人の「すき通った精神」に映った景色とそれに対する明恵の弁については、項を改め近日中に、ということにさせていただきます。