井筒俊彦「異文化間対話の可能性をめぐって」

 2021/01/13 の夕方発熱、翌日内科受診。叔父の葬儀、成人式への参列ということもあってか、問診、検査、診察、投薬、会計等々、すべてが車中で行われました。隔離覚悟でしたが、風邪との診断で事なきを得ました。
以後、夢現のうちに、
◇ 井筒俊彦『意味の深みへ ー東洋哲学の水位ー』岩波文庫
「文化と言語アラヤ識 ー異文化間対話の可能性をめぐってー」
「意味分節理論と空海 ー真言密教の言語哲学的可能性を探るー」
◇ 井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー東洋哲学のためにー』岩波文庫
「コスモスとアンチコスモス ー東洋哲学の立場からー」
を読みました。
 四日分の薬は底をつき、いまだに病状は一進一退を繰り返していますが、スタッフの方たちに極度の緊張を強いる受診は見合わせ、売薬ですまそうか、と考えています。

「文化と言語アラヤ識 ー異文化間対話の可能性をめぐってー」
井筒俊彦『意味の深みへ ー東洋哲学の水位ー』岩波文庫
 異文化の接触、異文化の衝突が、世界の至るところで惹起しつつある現代世界の混迷状態を、人間文化の危機(クライシス)として受けとめる人がある。たしかに危機には違いない、それが進んでいく方向によっては。だが、それはまた、個別文化の新生へのチャンスでもあるのだ。
 異文化の接触とは、根源的には、異なる意味マンダラの接触である。我々が既に見たように、意味マンダラは、特にそのアラヤ識的深部(「言語アラヤ識」)において、著しく敏感なものだ。刻々に消滅し、不断に遊動する「意味可能体」は、それ自体において既に、本性的に、かぎりない柔軟性と可塑的とをもっている。まして、異文化の示す異なる意味マンダラに直面すれば、鋭敏にそれに反応して、自らの姿を変える。だから、異文化の接触が、もし、文化のアラヤ識的深部において起るなら、そこに、意味マンダラの組みかえを通して、文化テクストそのものの織りなおしの機会が生じることはむしろ当然のことでなくてはならない。文化の新生。新しい、より包括的でより豊富な、開かれた文化の誕生する可能性が成立する。そこにこそ、我々は、異文化接触の意義を見るべきなのではないか。そして、それこそ異文化間対話の究極的な理想像であるべきなのではないか、と私は思う。(97頁)

井筒俊彦によって保証された「異文化間対話の可能性」の保証は頼もしい。
また、

「対談 二十世紀末の闇と光(井筒俊彦 / 司馬遼太郎)」
井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー東洋哲学のためにー』岩波文庫 
 当対談は、お二人が挨拶を交わされた後、司馬遼太郎の、
「私は井筒先生のお仕事を拝見しておりまして、常々、この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているなと存じあげていまして。」(448頁)
の発言にはじまり、また司馬の、
「やっぱり哲学者は違うなあ(笑)。だから、われわれは世界に対して光明を求めあう。そういうことが今日の結論ですね。」(486頁)
の言葉で幕を閉じた、井筒俊彦 生前最後の対談を思い出す。
「深層意識的言語哲学」者である井筒俊彦の面目躍如である。

以下、
井筒俊彦「コトバの、また文化の圧制的側面_1/3」
「井筒俊彦が散文詩で綴った『言語アラヤ識』、そして『意味可能体_2/3』
です。ご参考まで。