小林秀雄「絵を見るとは,一種の退屈に堪える練習である_実践編」
小林秀雄『偶像崇拝』
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
『偶像崇拝』は、多くの話題から成っている。絵画に題材をとり、惜しげもなく展覧された「作品群」は、どれ一つとってみても秀逸で、瞠目するばかりである。「絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を談じ乍(なが)ら、こういう寡黙(かもく)な認識を全く侮蔑(ぶべつ)している。そしてそれに気附いていない。」(218頁)
小林秀雄の以上の文章を引いたのは、2017/07/21のことである。その際には、
「けっして他人事(ひとごと)ではなく、小林秀雄の達観である。達見である。」
と書き添えておいた。しかし、その後、
「解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習」
は顧みられることなく、なおざりになっている。本を開くのがめんどくさいのである。
例えば、白洲正子は、
◇ 白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫
に、
「私は何かの本からその写真(高山寺の「仏眼仏母(ぶつげんぶつも)像」)を切りぬいて、机の前にはりつけておいたのですが、実物は長いこと見る機会がありませんでした。」(50頁)
と書いている。
また、小林秀雄については、
◇ 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社
に、
「小林がこの絵(ゴッホ《鴉のいる麦畑》)を見たのは、戦後間もない昭和二二年三月、上野で開催されていた「泰西名画展覧会」でのこと。しかし、小林が感動したのは実物ではなく、「見事な複製」だった。小林はこの絵に強く惹かれ、複製画なら手に入れられるだろうかと、しばらくはそのことばかり考えて「上の空」だったという。そんな小林の様子を聞きつけた宇野千代が、どこかで同じ複製画を手に入れ、小林の元に届けてくれた。(左頁)
念願の画を手にした小林の心の中には、「もう一つの欲望」がとりついていた。
「あの巨きな眼は一体何なのか、何んとかして確かめてみたいものだ」。
《鴉のいる麦畑》との出会い、「心に止まって消えようと」しない感動が、小林に大著「ゴッホの手紙」を書かせたのであった。」(7-8頁)
と書かれ、「(左頁)」の写真には、実物大(505×103)と思われる「レプリカ」を横目に、煙草を手に、強ばった表情をした小林秀雄が、ソファーに座っている姿が写っている。
思いがけずも長い引用になってしまったが、
「解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習」
には、それが複製であろうが、小さな写真であろうと、目につくところに貼り付けておくのが適当だということである。
複製が大著を書かせることもあろうし、
「(ゴッホの展覧された作品を目にした)印象は、実に強いもので、私は、嘗て複製で、彼の絵を見た時の感動を新たにしたが、嘗て見たものは不完全な画面であったが、それから創り上げた感動は、感動というものの性質上、どうしようもなく完全なものであったと思」(101頁)うこともあるだろう。(「ゴッホ」小林秀雄『人生について』中公文庫)
また、
「「かって、ゴッホについて書いた動機となったものは、彼が自殺直前に描いた麦畑の絵の複製を見た時の大きな衝撃であったが、クレーラー・ミューラーの会場で実物を見た。絵の衝撃については、心の準備は出来ている積りでいたが、やはりうまくいかなかったのである。色は昨日描き上げた様に生ま生ましかった。私の持っている複製は、非常によく出来たものだが、この色の生ま生ましさは写し得ておらず、奇怪な事だが、その為に、絵としては複製の方がよいと、私は見てすぐ感じたのである。それほど、この色の生ま生ましさは堪え難いものであった。これは、もう絵ではない。彼は表現しているというより寧ろ破壊している。この絵には、署名なぞないのだ。その代り、カンヴァスの裏側には、「絵の中で、私の理性は半ば崩壊した」という当時の手紙の文句が記されているだろう。彼は、未だ崩壊しない半分の理性をふるって自殺した。だが、この絵が、既に自殺行為そのものではあるまいか。彼の尊敬したレンブラントの自画像は、影の中から浮び上がる。レンブラント自身は、恐らく影の背後に身をひそめていたであろう。ゴッホの最後に描いた自画像は、明るい緑の焔の中にいる。彼自身の隠れる場所は、画面の何処にもなかったのである。」(112-113頁)
(「ゴッホ」小林秀雄『人生について』中公文庫)ということにもなるだろう。
還暦を目前にして、これからは天才としかおつき合いしません。美しいものしか見ません、と決めているが、単にそれは眼の訓練にかかっている。
以下、
です。久しぶりに読み返しました。やはり小林秀雄はすごかった。