白川静「ディオニュソス的中国観」

「『白川静』の学問 ー 異端の学?」
「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」
『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社

梅 原 もう三十年も前になりますか。それからずっと、先生をみてますと、先生は年々偉くなってる。年々先生の凄さが私にも解ってきたような気がする。
 前は先生を偉いが異端の学者だと思ってましたけど、中国学の本道ではないと思ってました。しかしだんだん、先生が一つの大きな学問を開かれているんだという、そういうことを実感し始めたのです。私は先生の本の全部を理解するにはとても及びませんけど、私の理解した部分だけでも、一つの新しい中国学がここで始まっていると、中国の文明というものを本当に理解するためにはどうしても必要な、世界的に重要な新しい学問が先生によって作られているんだ、ということをつくづく感じます。
 この例は適当かどうか解りませんけど、私が若い時から好きなニーチェ、このニーチェがディオニュソス的ギリシアを発見した。今まではアポロン的に、合理主義的に理解されて来たギリシア哲学は理性の体系だと、ギリシャ思想は “もの”をクリアに見るアポロン精神でのみ理解されて来たんですが、そればかりではない、もう一つギリシアには、違った精神がある、それはディオニュソスだと。ディオニュソスというのは酒の精神ですからね、情熱が溢れ出るようなそういう熱狂の精神がギリシアにある。それがニーチェの新しいギリシアの発見です。そのニーチェの発見と同じものが先生にはある。
 私は吉川幸次郎(よしかわこうじろう:京都大学名誉教授)先生の著作を愛読しているんですけど、吉川先生が中国でいちばん好きなのは孔子(こうし)と杜甫(とほ)だと、特に杜甫ですね。それは不可思議な世界があることを感じてはいるが、認識を人間の及ぶ理性の範囲に留めた。いわゆる「怪力乱神
を語らず」です。そういう点で、孔子と杜甫をいちばん評価している。「吉川中国学」というのは、アポロン的な中国観なんですよ。
 ところが先生はディオニュソス的中国観を開いたのです。アポロン的なものの見方を真っ向から変えてしまった。漢字の背後に全く不合理としかいえないような、畏しい神の世界がある。(26頁)

 従来の「中国学」は、「白川中国学」を通して見直しを余儀なくされ、また今後の「中国学」は、「白川中国学」の上に築かれることになる。
 白川静の執念の賜物である。決して花形とはいえない地道な基礎研究が日の目を見た稀有な例といえるかも知れない。