土門拳「三徳山 三仏寺 投入堂」

「三徳山(みとくさん)三仏寺(さんぶつじ)投入堂(なげいれどう)」については、以下の公式サイト、
をご覧ください。また、ぜひ動画をご覧ください。すてきです。

「西仏寺と西国 投入堂登攀記」
土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫
 気の遠くなるような急傾斜な地形に即応する懸造(かけづくり)の構造法をとり、同時に空から降ってきたような、あるいはまた、空からエイッとばかりに岩の窪みに投げ込んだように、天空海闊(てんくうかいかつ)な設計で投入堂は建てられている。
 細身の角材を、さらに大面取(おおめんど)りして、細く軽快に見せている柱、垂木(たるき)、軒桁(のきげた)など、懸造の高架建築は、美しさは日本一といってよく、悠然たる断崖に張りつけられている発想自体、これをつくった人々の天才的な閃(ひらめ)きを感じさせるものである。
 木造建造物を水や湿気から守るために、急傾斜な地形に即応する懸造の構造法をとる。
(中略)
昔は堂舎三十八宇、寺三千軒と伝えられる三仏寺には、懸造の高架建築はさらにいくつもあったことであろう。三仏寺に拠る平安時代の初期修験者集団は、いわば懸造の高架建築に偏執狂的に憑かれていたのではないか。(140-141頁)

 元結掛堂(もとゆいかけどう)の岩端をまわると、眼前に数十メートル先に豁然と奥の院投入堂が姿をあらわす。あっと息をのむような美しさである。奈良、京都と古寺巡礼を続けて、数十の名建築を見てきたが、投入堂のような軽快優美な日本的な美しさは、ついに三仏寺投入堂以外には求められなかった。わたしは日本第一の仏像は? と問われれば、銅造ならば薬師寺東院堂(やくしじとういんどう)の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)、木造ならば神護寺金堂(じんごじこんどう)の薬師如来(やくしにょらい)立像をあげることは予(かね)てからの持論だが、日本第一の建築は? と問われたら、三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないであろう。ほかに塔ならば薬師寺三重塔、楼閣ならば平等院鳳凰堂をあげなければならないが、三重塔や鳳凰堂は見飽きないともかぎらない。しかし簡素な素木造(しらきづくり)の投入堂は、周囲の懸崖の季節、時間の変化と相まって、見飽きる虞(おそ)れはなさそうである。事実、この後、春夏秋冬、季節ごとに五度も六度も登って、登れば必ず数時間を投入堂のそばですごしているが、見飽きた覚えはない。(158-159頁)

だいたい、三徳山の北側のオーバーハングする大岩盤の岩窟の中に建っている投入堂には陽が当たることがなく、いつも逆光を受けて寒々としている。武部(光男)さんが扉を思いきり左右に開いた一瞬、向かいの山に当たっていた西陽がフットライトのような調子で堂内に差し込んだ。堂内に漆箔のキラキラしい本尊以下、朱彩もあざやかな五体の蔵王権現が狭い内陣にひしめいている光景を見たとき、わたしは思わず合掌した。戦後、在家の俗人としては、投入堂内陣(ないじん)を拝するなどとは、恐らく初めての幸せにちがいないということがひしひしと感じられたのである。(167頁)


 投入堂には、疑うことを知らぬ、重力に身を任せきっている者のもつ美しさがある。これは信仰である。投入堂は信仰をもつ者の静けさをたたえている。一つの疑念がそれを崩壊へと導く。
 投入堂は平安な一体の仏像である。「三仏寺に拠る平安時代の初期修験者集団」が、「懸造の高架建築」を建立することにおいてのみ「偏執狂的に憑かれていた」、意味を見いだしていた、とは到底考えられないことである。彼らは建築屋ではなく、行を行ずる者たちであった。一個の「懸造の高架建築」と一体の仏像は彼らにとって等価なものであった。投入堂は彼らの祈りだった。
 土門拳の写真をよく見るのは難しい。一枚の絵をよく見るのと同様の難しさがある。