司馬遼太郎「言挙げせぬ神々」

司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫

「神 道 (7) 」
 神道という用語例は、すでに八世紀の『日本書紀』にある。
 シントウと澄んでよむならわしは、平安時代にはじまるという。
 理由は、日本語は元来、清音をよしとしてきたという程度だったろう。「いろはにほへと」も、すべて清音である。和歌も、明治以前はすべて清音だけで表記されてきた。古音は、一般に澄む。
 神道に教義がないことは、すでにふれた。ひょっとすると、神道を清音で発音する程度が教義だったのではないか。それほど神道は多弁でなく、沈黙がその内容にふさわしかった。
 『万葉集』巻第十三の三二五三に、
 「葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国は神(かむ)ながら、言挙(ことあ)げせぬ国」
 という歌がある。他にも類似の歌があることからみて、言挙げせぬとは慣用句として当時ふつうに存在したのにちがいない。
 神(かん)ながらということばは、 “神の本性のままに” という意味である。言挙げとは、いうまでもなく論ずること。
 神々は論じない。アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれぞれ神である以上は、山は山の、川は川の本性として ー神ながらにー 生きているだけのことである。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない。
 例としてあげるまでもないが、日本でもっとも古い神社の一つである大和の三輪山は、すでにふれたように、山そのものが神体になっている。山が信徒にむかって法を説くはずもなく、論をなすはずもない。三輪山はただ一瞬一瞬の嵐気(らんき)をもって、感ずる人にだけ隠喩(メタフア)をもって示す。(66-68頁)

「神 道 (4) 」
 平安末期に世をすごした西行(1118〜90)も、(伊勢神宮に)参拝をした。
「何事(なにごと)のおはしますをば知らねども辱(かたじけな)さの涙こぼるゝ」
 というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった。
 むろん西行は若いころ北面の武士という宮廷の武官だったし、当代随一の教養人でもある上、伊勢では若い神官たちに乞われて歌会も催しているのである。 “何事のおはします” かを知らないどころではなかった。(44頁)

 神道のおよその変遷を知った。
 神道はしばしば政争の道具として利用され、ものいわぬ者にものいわしめた。神道は数奇な運命をたどっていまにある。
「ここで言っておかねばならないが、古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益(げんぜりやく)の卑しさはなかった。」(11頁)
 そして、この話題は、「やはり神道は言挙げせぬこそふさわしいのかもしれない。」(74頁)の一文で結ばれている。