「古代人の思考はよく『古代人』が聞き分ける」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書
 南島で出会った精霊たちは、折口の考えてきた「古代人」の思考そのままの現れ方をした。島の人々は「あの世」が海の彼方(かなた)のニライカナイにある、と考えていた。ニライカナイとは「根の島」という意味で、そのまま「魂のふるさと」「魂の根源の場所」を意味していた。人が亡(な)くなると、その魂はニライカナイに戻っていく。またそこは生命の根源の場所で、ニライカナイにつながっていないと、「この世」は生命の輝(かがや)きをなくしていく。しかし、生きている人間はめったなことでは、この海の彼方の「あの世」に行くことはおろか、触れることすらできない。だから島の人々は、「あの世」からの来訪者である「まれびと」の到来(とうらい)を待ち望んでいるのである。
 仮面を着装し、植物で全身をおおった精霊が、いかにも「まれびと」らしく、一年に一度だけの決まった日に、村の裏にある洞窟(どうくつ)や森の奥から、島の人々が緊張(きんちょう)しながら待ち受ける神聖な広場にあらわれてくる。ざわざわざわざわとからだを揺(ゆ)すり、踊(おど)るように舞(ま)うように、「まれびと」が目の前にあらわれると、人々の興奮は頂点に達し、精霊と一体になった人々の心のなかには、「あの世」との通路がひらかれる。生きている者と死者たちの霊とは一体となり、過去と現在と未来がひとつになったような、不思議な時間の感覚があたりを包み込む。(47-50頁)
◇ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。

 折口信夫は「目撃」したのである。そして、
「わたしはいまの世で成功する者とはなりえない人間だ。なぜならわたしは精霊とともに生きる一人の古代人であるのだから」(60頁)
と、「一人の古代人」を自任する折口は、古代人さながらに霊気に当たり、古代人さながらに精気に浸ることによって、すべてを身にひき受けたのである。

「まれびと」は折口信夫の詩人的な幻想(げんそう)などではなく、たしかに実在していたのだ。
 沖縄諸島への旅から戻った折口信夫は、矢継(やつ)ぎ早(ばや)に、日本の文学と芸能の「発生」を論じる、重要な論文を発表していった。「まれびと」はこうして、日本人の神観念の原型をしめしているばかりではなく、折口信夫の学問と思想の全体を表現する、たぐいまれな独創性をもつ概念となって成長していった。(52頁)

◆ 以下、よくまとまっていますので載せておきます。ご参考まで。
徹底的(てっていてき)に異質な領域が「ある」ことを、「古代人」は知っていた。つまり、世界は生きている人間のつくっている「この世」だけでできているのではなく、すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処(すみか)である「あの世」または「他界」もまた、世界を構成する重要な半分であることを、「古代人」たちは信じて疑わなかったのである。
 この他界と現実の世界をつなぐ通路が発見されなければならない。目にも見えず、思考がとらえることもできない「あの世」から、なにか不思議な通路を通って「この世」に出現してくるものがうまく表現されたとき、人は不幸な感覚から解放される。「この世」に生きている時間などはほんのわずかにすぎないけれど、それでも「この世」を包み込んでいる「あの世」があり、あらゆる生命が死ぬとそこに戻っていき、またいつかは新しい生命となって戻ってくることもあると知ることができれば、わたしたちはいつも満ち足りて落ち着いた人生を送ることができる。「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、折口信夫の発見(再発見)した「まれびと」なのであった。(45-46頁)

「人類の原初的な心の動き(13頁)」といまに生きる私たちの心の動きが不可分であることは容易に察しがつく。本書を通して相即不離の関係にある古代人の思考に触れたことの意義は大きい。
 畏まり居ずまいを正すことを久しく忘れた日本人が美しくあることは困難である。
 書名の『古代から来た未来人 折口信夫』からは、未来を志向する折口信夫の姿が目に映る。「古代人である折口信夫」の思考は、現代という乱世の闇を照らす光となる。思いをいたせばいい。それは永劫に続く未来においても同様のことである。
 やはり折口信夫は、「古代から来た未来人 」であった。書名は的を射たものであった。
 P教授に推されての読書体験(再読)でした。感謝しております。