白洲正子「永井さんの『くるるの音』」
永井さんの「くるるの音」
白洲正子『夕顔』新潮文庫
昭和五十八年四月の「新潮」臨時増刊号は、小林秀雄の追悼記念号である。
その中に永井龍夫(たつお)氏が、『くるるの音』という題で、小林さんについて語っている。「伝説の第一作」、「弔詞」、「羨望(せんぼう)」とつづいた後の「附記」にはじめて出てくるのであるが、くるるというのは旧式の雨戸についている桟(さん)のことで、夕方になって、庭をひと眺(なが)めしてから、雨戸を締め、最後にくるるがコトンと落ちるのを耳にする時ほど侘(わび)しく、淋(さび)しいことはないと、そういうことが記してある。
くるるという言葉を知ったのはその時がはじめてで、私の家にも古い雨戸があるが、よほど材が枯れて軽くならないと、自然には落ちない。自然にコトンと落ちるようになった時、その家に長く住みついた感慨と愛着が湧(わ)くように思われる。
わずか半頁(ページ)にも満たない永井さんのくるるの音の印象はあまりにも強く、読んだ時たしかに耳元で聞えたし、今でも聞えているような気がするので、前に何が書いてあったか忘れていた。今度読み直してみて、前段の三章があってこそくるるの音が生きて、ひびいてくるのだということが解った。
それについては皆さん御承知のことだから、かいつまんで記しておくと、第一章は、小林さんと初対面の時の憶(おも)い出話、次の「弔詞」はお葬式の際に読んだもので、小林さんに語りかけるかたちで、再会を信じていたが果たせなかったことを淡々と述べた後、「あなたの好きな菜の花が咲きました。さようなら。小林さん」と、六十年の友情と鞭撻(べんたつ)に深い思いをこめて語っている。
三番目の「羨望」の章は、小林さんが大手術をして鎌倉(かまくら)の家に戻った時、玄関でひと目会っただけで帰ったこと、その後は小林家のそばを通っても、遠慮して見舞に立ち寄らなかったことを、私は遺族からも聞いていたが、江戸っ子の永井さんは、何事につけてもよく気がつく、思いやりの深い人物だったのである。
永井さんの文章について今さら云々(うんぬん)するのもおこがましいが、その三章を通じて悲しいなんて言葉は一つもなく、寂光のように明るく静かな空気がただよっている。そこには二人の間にかもされた友情が如実(にょじつ)に描かれており、簡潔な筆致の奥に一つの歴史が紛(まが)うことなく流れているのを知る。
さて、この「羨望」といういささか唐突な題については、三月一日午前五時、永井さんはラジオのニュースで小林さんの訃報(ふほう)を聞く。その夜の通夜でも葬式のあとでも、「数人の知人から病院を見舞った折り折りの話を聞いた。私はそのたびに、激しい悔恨と羨望を、ひそかに感じた」というのである。
それはほんとうの気持ちだったに違いない。だが、会いたいのを我慢して、会わなかった自分の悲しみは、君たちには解るまい。この「激しい悔恨」という言葉を、「激しい侮蔑(ぶべつ)」に置きかえ、「羨望」を、無神経な人々がいっそ羨(うらやま)しいという風に解しても、私は失礼には当らないと思っている。
そして、最後の「附記」で、くるるがコトンと落ちて、すべてが終る。
「ここ数ヶ月、そんな後で老夫婦が茶の間に落着くと、点(つ)けて間のない灯の下で、必ずといってもよいほど、故人の話が出た」
何という結末であろうか、私はいうべき言葉を持たない。何もいうことができない程の名文家を私たちは失ったのである。
今年の夏は雨が多かった。秋になっても、まだ降りつづいている。銀木犀(ぎんもくせい)の香(かお)りが、ほのかにただよう夕暗の中で、私はきしむ雨戸を締めながら、くるるの音を聞く。語る相手もいない火影(ほかげ)のもとで、私は永井さんの作品集をひもとき、そこに生きている人の面影(おもかげ)を偲(しの)ぶ。(95-97頁)
「くるるの音」は哀しく響く。
永井龍男老夫婦の侘び住いが、また老いを隠せない白洲正子の一人住まいが、それに追手をかける。小林秀雄の死を悼みつつも、そこには幾重にも重なる哀しみの描出がある。
違反行為とは承知の上で、全文を掲載させていただいた。
なお、「それはほんとうの気持ちだったに違いない」にはじまる一段落は、不要だった。歯切れのいい言葉は、白洲正子の真骨頂だが、ここには似つかわしくなく、つい筆が滑った格好である。永井龍男の困惑ぶりが目に浮かぶ。