小林秀雄「もう終りにしたい 」

小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫
「考えをめぐらしていると、「歌の事」という具象概念は、詮ずるところ、「道の事」という抽象概念に転ずると説く理論家宣長ではなく、「歌の事」から「道の事」へ、極めて自然に移行した芸術家宣長の仕事の仕振りに、これ亦極めて自然に誘われる。『直毘霊(ナホビノミタマ)(古道論)』の仕上りが、あたかも「古典(フルキフミ)」に現れた神々の「御所為(ミシワザ)」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものと見えて来る。「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、「歌の事」が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える。私は、思い附きの喩(たとえ)を弄するのではない。寛政十年、「古事記伝」が完成した時に詠まれた歌の意(ココロ)を、有りのままに述べているまでだ。ーー
  「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古
   古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」(325-326頁)

「概念」を極端に悪んだ宣長にとって、「『歌の事』という具象概念」から「『道の事』という抽象概念」へという飛躍は、及びもつかないことだった。
「歌の事」のことを「熟視」することによって、いつしかそれらは純化され、宣長はそこに、自ずからなる「道の事」をみた。
 ここに、四十四巻から成る、三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。

『本居宣長』の掉尾には、
「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頼りだからだ。」(253頁)
との記述があり、また、「本居宣長補記」の末尾には、
「もうお終いにする。」(368頁)
の一文が見受けられる。
 これらは小林秀雄の、精一杯の尽力後の、ため息混じりの言葉であろう。