ゴッホ「絵の中で、私の理性は半ば崩壊した」

「ゴッホ」
小林秀雄『人生について』中公文庫
「ゴッホが、大色彩画家として現れるのは、アルル以後の制作によってである。それは、誰も知る通りだ。彼が、アルルに来たのは、一八八八年の二月、春を告げる西北風(ミストラル)が荒れ狂い、雪は、見る見る消えて、巴旦杏(アマンド)の花が咲く。彼の色彩の目覚めは、まるで季節に脅迫される様に起った。「緊急」と書かれたカンヴァスや絵具の註文が、弟の許に殺到する。「灼けつく様な太陽の下で、ただもう刈り取ろうと夢中になって、口も利かない百姓の様に、急いで、急いで、急いで描き上げた黄金色の風景」とゴッホは書く。もうミレーもドラクロアも印象派もない。考えあぐねた色彩論のことごとくが、アルルの太陽の中で燃え上る。十二時間休みなしに働き、十二時間前後不覚に眠りこむという日がつづく。彼は、「これは死ぬか生きるかの努力」だったと言っている。「恋愛するものの慧眼と盲目とで」「機関車」の様に働くと書いている。絵は忘我と陶酔とのうちに成り、「自分で自分の仕事の判断もつかぬ。善し悪しも見えぬ」と言う。併し、大事なのは、彼自身この異常な精神の昂揚のうちに、何か不吉なもののあるのをはっきり嗅ぎつけていた事である。脅迫するものは太陽だけではない。自分を襲うものは自分自身の中にもある。書簡を読んで行くと、大発作の起った十二月が近づくにつれ、彼の予感が、次第に強くなって来るのがはっきりわかるのである。サン・レミイの病院にあって、「自分に振られた狂人の役を、素直に受け容れよう」と心を定めて了ったゴッホは、前年、アルルで達した「黄色の高い色調」を回想し、あれほどの黄金色の緊張を必要とし、これに達し得たというのも、心が狂わなければ不可能な事だったっであろうと言っている」(107-108頁)

「かって、ゴッホについて書いた動機となったものは、彼が自殺直前に描いた麦畑の絵の複製を見た時の大きな衝撃であったが、クレーラー・ミューラーの会場で実物を見た。絵の衝撃については、心の準備は出来ている積りでいたが、やはりうまくいかなかったのである。色は昨日描き上げた様に生ま生ましかった。私の持っている複製は、非常によく出来たものだが、この色の生ま生ましさは写し得ておらず、奇怪な事だが、その為に、絵としては複製の方がよいと、私は見てすぐ感じたのである。それほど、この色の生ま生ましさは堪え難いものであった。これは、もう絵ではない。彼は表現しているというより寧ろ破壊している。この絵には、署名なぞないのだ。その代り、カンヴァスの裏側には、「絵の中で、私の理性は半ば崩壊した」という当時の手紙の文句が記されているだろう。彼は、未だ崩壊しない半分の理性をふるって自殺した。だが、この絵が、既に自殺行為そのものではあるまいか」(112頁)

 下記に記した一文は、小林秀雄が、ヤスパース(精神病理学者)の考察に付した「註」、もしくは「補遺」に相当するものであり、ゴッホを、またゴッホの画を理解する上で重要な意味をもつものである。さすがに小林秀雄に手抜かりはない。
「誤解してはならないのは、ヤスパースがここで言う精神とは、健康と病気との対立などを超えたものを指すので、病気(精神分裂症)という機縁によって、病気がなければ、恐らく隠れたままで止ったゴッホの人格構造の深部が、彼の自我の正体が、露呈されて来ると言うのである」(96頁)
 そして、以下の掉尾の文は、上記の一文を踏まえたとき、はっきりと理解される。
「彼の尊敬したレンブラントの自画像は、影の中から浮び上がる。レンブラント自身は、恐らく影の背後に身をひそめていたであろう。ゴッホの最後に描いた自画像は、明るい緑の焔の中にいる。彼自身の隠れる場所は、画面の何処にもなかったのである」(112-113頁)

「ゴッホは、自分の病気について、非常に鋭い病識を持っていた」(98頁)が、病態が悪化すれば、「病識」も「予感」もひとたまりもなく、翻弄されるばかりだった。「人格構造の深部」が、「自我の正体」が、白日のもとにさらされるということは、「隠れる場所」もなく、逃げ場もなく、徒手で世界と向きあうことであり、いつ狂気に足をすくわれ、自己を喪失するやもしれぬという危機に瀕しているということであるが、それは、ゴッホという画家の一切が「露呈」し、天才があらわれる場でもあった。ゴッホの天与の才は、先天的な体質と道連れだったことを思うと複雑な思いがする。