本居宣長「息を殺して、神の物語に聞き入る」
小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫
「彼(本居宣長)にとって、本文の註釈とは、本文をよく知る為の準備としての、分析的知識ではなかった。そのようなものでは決してなかった。先ず本文がそっくり信じられていないところに、どんな註釈も不可能な筈であるという、略言すれば、本文のないところに註釈はないという、極めて単純な、普通の註釈家の眼にはとまらぬ程単純な、事実が持つ奥行とでも呼ぶべきものに、ただそういうものだけに、彼の関心は集中されていた。神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。この、欠けているものは何一つない、充実した実戦のうちに、研究が、おのずから熟するのを待った。そのような、言わば、息を殺して、神の物語に聞入れば足りるとした、宣長の態度からすれば、真淵の仕事には、まるで逆な眼の使い方、様々ないらざる気遣いがあった、とも言えるだろう」(197-198頁)宣長にとって「神代の伝説」をよく知ることと、信仰の境地が深まることは同時進行だった。それは宣長にとって切実な問題であり、喜びでもあった。
「之を好み信じ楽しむ」とは、宣長の学問に対する生涯変わらぬ態度だった。
「無心」とは「無私な心」と言い換えることができよう。