井筒俊彦「芭蕉の本質論」

井筒俊彦『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』岩波文庫 
2022/01/24
 前項の繰り返しになるが。
 昨日はブログを読んで過ごした。
「“引用” は人の為ならず」ということを実感した。デジタルデータ化すれば、検索も容易である。
 井筒俊彦は、深層意識的言語学者である。井筒の文章は緻密であり明晰である。また、国語国文学者とは、自ずから視座が異なり興味深い。
 通読を旨とする、そして初読後 間もなくの再読、という読書習慣が身についた。私にとっては、斬新な出来事である。
 以下、長い引用である。

「話が大へん廻り道してしまったが、もともと私はここで芭蕉の本質論について語りたかったのだ。「本質」の直観的把握におけるマーヒーヤ(「本質」の普遍性)とフウィーヤ(「本質」の個体性)の結び付き。この問題を芭蕉はある独自の仕方で解決した」(53頁)

「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転換する瞬間がある。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する、俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。
 一々の存在者をまさにそのものたらしめているマーヒーヤを、彼は連歌的伝統の術語を使って「本情」と呼んだ。千変万化してやまぬ天地自然の宇宙的存在流動の奥に、万代不易な実在を彼は憶った。「本情」とは個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的「本情」。内在するといっても、花は花、月は月という『古今』的「本質」のように、事物の感覚的表層にあらわに見える普遍者ではない。事物の存在真相に隠れた「本質」である。「物と我と二つになりて」つまり主体客体が二極分裂して、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮りに存在表層と呼ぶとして、ここで存在深層とは、この意味での存在表層を越えた、認識的二極分裂以前の根源的存在次元ということである。
 このように本来的に存在深層にひそむ「本情」は、当然、表層意識では絶対に捉えられない。つまり普通の形での「…の意識」の「…」にはなりえない。「…の意識」とは、すでに詳しく述べてきたように、二極分裂的自我意識だからである。ものの「本情」に直接触れるためには、「…の意識」そのものの内的機構に、ある根本的な変質が起らなければならない。この変質を芭蕉は「私意をはなれる」という一見すこぶる簡単な言葉で表現する。私意をはなれて、つまり二極分裂的でない主体としてものを見るということ。このような方向に自己を絶えず修錬していくことがすなわち彼のいわゆる「をのれが心をせめて、物の実(まこと)しる事」(『許六離別ノ詞』)という美的修錬だった。これを「風雅の誠」と彼は呼んだ。
 しかし、このように美的修錬をつんで、存在の深層を垣間見ることのできるようになった人にも、あらゆるものの「本情」が常住不断に露わになっているとは芭蕉は考えなかった。経験的世界に生きる、あるいは生きなければならぬ存在者として、人の普段は「…の意識」で事物に接している。ただ、「内をつねに勤めて物に応」じる特別の修養を経た人、すなわち「風雅に情(こころ)ある人」、の実体験として、ものを前にして突然「…の意識」が消える瞬間があるのだ。
 そういう瞬間にだけ、ものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という。一瞬の、ひらめく存在開示。人がものに出合う。異常な緊張の極点としてのこの出合いの瞬間、人とものとの間に一つの実存的磁場が現成し、その場(フィールド)の中心に人の「…の意識」は消え、ものの「本情」が自己を開示する。芭蕉はこの実存的出来事を、「物に入りて、その微(び)の顕(あら)われ」ることとして描いている。「物に入る」とは、ものが「…の意識」の対象ではなくなること、つまりこの出来事が、人の側においては、二極分裂的意識主体の消去であることを指し、「その微が顕われる」とはものの側では、それの「微」、すなわち普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで目に見えぬ「本情」が自らを顕わすことを指す。
 この場合、そこに自己を開示するものは「本情」、すなわち普遍的「本質」でなければならない。しかし、この永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験においては、突然、瞬間的に、生々しい感覚性に変成して現われるのだ。普遍者が瞬間的に自己を感覚化すると言ってもいい。そしてこの感覚的なものが、その時、その場におけるそのものの個体的リアリティーなのである。人とものとの、ただ一回かぎりの、緊迫した実存的邂逅の場(フィールド)のなかで、我々が始めから使ってきた用語法で言うなら、マーヒーヤがフウィーヤに変貌する。だが、すべては一瞬の出来事にすぎない。「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし」と。「その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究」めなければならないのである。
 以上、私は主として服部土芳(はつとりとほう)あらわすところの『赤冊子(あかそうし)』に依拠して、芭蕉の詩論と思われるものを「本質」論的に分析してみた」(57-60頁)

「これに対して、不変不動のマーヒーヤの形而上的実在性を認めながら、それをそのまま存在の深層次元に探ろうとするかわりに、それが感性的表層に生起してフウィーヤに変成する、まさにその瞬間にそれを捉え、そうすることによって存在の真相をマーヒーヤ、フウィーヤの力動的な転換点に直観しようとする芭蕉のような詩人がいる」(60頁)

「普通、永遠に不変不動と考えられる普遍的「本質」を、フウィーヤとの関聯において著しく動的でダイナミックなものとして彼は捉えた。
 フウィーヤ追求の情熱のはげしさにおいて、芭蕉はいささかもリルケに劣らなかった、と私は思う。このものをまさにこのものとして唯一独自に存立させる「このもの性」、フウィーヤ、を彼は己れの詩的実存のすべてを賭けて追求した。他面、しかし、彼はフウィーヤの圧倒的な魅力に眩惑されて、普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在性を否認することもなかった。彼にとって、事物のフウィーヤはマーヒーヤと別の何かではなかったのだ。存在論的に、「不易」は「流行」と表裏一体をなすものであった」(56頁)


 井筒俊彦が描く、芭蕉の句作の真相は劇的である。それは芭蕉の “目撃 ” 体験だった。
 私には身に覚えのないことであり、字面を目で追うのが一生懸命であるが、大切なことが書かれていることだけは理解できる。
 私にとって井筒俊彦の著作は「実学」の書であり、実用の書であり、そういう意味において、井筒俊彦はどうしようもなく福澤諭吉門下の人である。

「福澤がいう実学はすぐに役立つ学問ではなく、「科学(サイエンス)」を指します。実証的に真理を解明し問題を解決していく科学的な姿勢が、義塾伝統の「実学の精神」です。」
との註が、慶應義塾大学のウェブサイトに記されている。

「井筒俊彦にとって『意識と本質』の執筆は、氏の「意識と本質」の実在体験と同時進行だった。」(若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 379-388頁)
 実在体験としての描出と哲学の文章の記述との間には、懸隔がある。
 いま一度、
『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』を読むことの必要を感じている。次回は、岩波文庫ではなく、
◇『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会
を、「解題」を参照にしつつ精読することにする。