土門拳「古寺を訪ねて_小品群_まとめて」

 四分冊になっている、
◇ 土門拳『古寺を訪ねて』小学館文庫
の各章の扉には、折々の写真とともに、土門拳の文章が引かれている。この感性、この知性、この筆力にしてこの写真であることを彷彿とさせる小品群である。看過するにはいかにも惜しく、納めさせていただくことにした。
 各地で読むのを楽しみにしている。

土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫
「法隆寺と斑鳩」
金堂にせよ、五重塔にせよ、
振り仰いだときの厳粛な感銘は格別である。
古寺はいくらあっても、
その厳粛さは法隆寺以外には求められない。
それは見栄えの美しさというよりも、
もっと精神的な何かである。
そこに飛鳥を感じ、聖徳太子を想い見る。
いわば日本仏教のあけぼのを
遠く振り仰ぐ想いである。

「東大寺と平城京」
東大寺の伽藍の中で、創建のままに残って、
天平の壮大なロマンチシズムを今に伝える建造物は、
転害門一棟だけなのである。
千二百年来、大屋根をどっしりと支える檜の円柱、
その円柱を受ける花崗岩の礎石。
その円柱と礎石を見ているだけで、
こころの安らぎを覚えるのである。

「浄瑠璃寺と石仏」
こんな山の中に美しい大伽藍をつくったのは、
どういう考えだったのであろうか。
そして京から奈良から、
野越え山越え浄土信者たちは詣でたのであろうか。
その道のりの遠さは、
彼岸への遠さと似ていたのであろうか。
浄瑠璃寺境内に雨におもたくぬれるさくらは、
ものうく、あまく、人の世のさびしさ、
あわれさをいまさらのように考えさせている。

土門拳『古寺を訪ねて 奈良 西ノ京から室生へ』小学館文庫
「薬師寺」
薬師寺東塔は、
日本の塔の中で、最も奇抜な、
変化に富んだ、剛柔繁簡かねそなわった、
見れども飽かぬ美しい塔であるとぼくは思う。
今に残る白鳳時代唯一の建築として
貴重なばかりでなく、
その豪壮雄偉な建築美において、
日本一の塔といってよい。

「唐招提寺」
唐招提寺の諸仏や諸堂には、
厳粛、重厚、壮大の感じがみちている。
大陸的なおおらかさがあふれている。
造営に当たった大部分の人が
中国人だったからだろうといってしまえば、
あまりに簡単であるが、
鑑真和上その人の宗教的な気宇の大きさ、はげしさ、
きびしさが全体を支配しているからだと、
ぼくは思う。

「飛鳥の里と南大和の寺」
千二百年の昔、飛鳥の里は、
日本文化のあけぼのに位置していたことは確かだが、
今は空を流れる雲、
飛鳥川のせせらぎに昔を偲ぶほかはない。

「室生寺と室生の里」
室生寺は春夏秋冬それぞれに魅力があるが、
椿、桜、石楠花がつぎつぎに咲く春が
一番室生寺の室生寺らしい季節かもしれない。
時間をたっぷりとって、
ゆっくりと自然の芸術と二つながらの
美しさを味わうがよいのである。

土門拳『古寺を訪ねて 京・洛北から宇治へ』小学館文庫
「神護寺と高山寺」
「好きな仏像は」と問われれば、
即座に「神護寺薬師如来立像」と答えるのが常である。
飛び立とうとして飛び立たず、叫ぼうとして叫ばず、
動と静の矛盾する要素を一身にもって、
高尾山中奥深き黒漆の厨子の中に
薬師如来は直立している。

「西芳寺と洛北・洛西」
西芳寺に行って、
今日はこれを撮らねばならないといった
義務感にとらわれたことや、
どうしてもあれを撮ってやろうといきおいこんだことはない。
毎度毎度まず参道に真っ直ぐにカメラを向け、
次に数歩行って築地を撮り、
玄関前の一尺四方石に
「こんにちは」をいって庭園に入るわけである。

「東寺と三十三間堂」
東寺の境内は四万坪ある。
平安初期に嵯峨天皇から空海に
下賜された当時とかわっていない。
広い境内に彩りを添えているのは楠である。
その常緑は、金堂・講堂などの丹塗りの建築群と
映えて美しい対照を見せている。

「平等院」
大棟両端の鳳凰は、棟飾りとはいいながら、
極楽浄土そのもののシンボルである。
屋根に登ってみると、あまさもみじんもなく、
さながら猛禽のようなたくましい造形におどろかされる。
千年の風雪に堪えて、
藤原盛期の金工品が大棟を飾っているということは、
日本なればこそである。

土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫
「中尊寺とみちのく」
人はだれでも平泉に来れば、歴史家になる。
あえて金色堂とかぎらず、路傍の小さな五輪塔にも、
月見坂の杉木立にも、いや、残るものとては何もない
田圃の中の地名にすら、人は人間のドラマを見ることができる。
時間を一挙に空間に置きかえて、人に見させ、
人に感じさせるものが平泉にはある。

「勝常寺と東国」
阿賀川の上流と支流の流域に残る会津五薬師堂を
はじめとする古社寺と古跡をめぐるならば、
千年前に会津盆地の勝常寺を中心として
目を見はらせるような一大文化圏が
構成されていたことを
発見せずにはいられないであろう。

「永保寺と近畿」
懸魚は、当然、伽藍建築にともなって
中国から伝えられたものと考えられるが、
それを系統づける資料はない。
しかしぼくははるかに破風の懸魚を見上げるとき、
こういう微視的な部分にまで繊細な意匠を
こらしている日本人という民族に、何か声をあげたく
なるほど切ないものを感ずるのである。

「三仏寺と西国」
奈良、京都と古寺巡礼を続けて、
数十の名建築を見てきたが、
投入堂のような軽快優美な日本的な美しさは、
ついに三仏寺投入堂以外には求められなかった。
わたしは日本第一の建築は? と問われたら、
三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないであろう。


 土門拳の指示した道を進もうと思う。しかし、土門の示した時間を各所で過ごすのは困難である。この困難を越えなければ、ものがみえるようにならないとしたら、途方に暮れるばかりである。
「勝手にすればいい」
と土門の声がし、私の声がする。
そして、
「仏像は走る」
といわれ、あわてて私は逃げ出す。