「山の日に山気にあたる_3/3」

高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫
「仕事の径(みち)は暮らしの延長線上にあった。径は、その仕事の目的によって、たどる径筋がまるで異なっていたのである。たとえばマイタケ採りの径なら、マイタケの出るミズナラの木を効率よくめぐるように付けられているし、それがゼンマイ採りの径なら、ゼンマイの生えている渓の奥まで、険しい溪筋を避けながら、山肌の弱点を縫ってつづいていた。それらの径には無駄というものがなかった。(中略)そのような無駄を排した径が、原生の自然と見事に融和しながら、一条の美しいラインとして山中につづいていたのである」(8頁)

「径は目的によって拓かれ、目的を失うことによって消え果てた」(392頁)
「滅びゆくものに、かぎりない愛着をおぼえて止まないのは、無常への追認である」(394頁)
「そんなはかない、常ならぬものへの諦観と覚悟をいざなう滅びゆく存在が、私を捉えて離さなかったのだ」(394頁)


 高桑信一の
◇ 高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫
は、
◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』ヤマケイ文庫
と同様に、入念なフィールドワークに基づいた、一級の山の民俗誌の風格がある。
 山人が “用” のためにつけた径を俯瞰したとき、幾筋かの径筋が細線として映える。用の美である。
 確かに、高桑さんの文章は上手いが、ときに洒脱にすぎるのが難点である。