アン・リンドバーグ「サヨナラ」

アン・モロー・リンドバーグ「サヨナラ」
A・M・リンドバーグ著,中村妙子訳『翼よ、北に』みすず書房
「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。…けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ ー 「サヨナラ」は。

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アン・モロー・リンドバーグ著 / 中村妙子訳『翼よ、北に』みすず書房
 感受力も並でない。とくに日本語の「サヨナラ」について語るところ。「文字通りに訳すと、『そうならなければならないなら』という意味だという。これまで耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉を私は知らない」とアンは書く。英語でもフランス語でもドイツ語でも、別れの言葉には再会の希望がこめられている。祈りがあり、高らかな声がある。
 しかし日本語の「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。「それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている」
 われわれにとっても思いがけない読みだ。須賀敦子も、そこに感銘を受けたと書いていた。アン・モロー・リンドバーグは二00一年二月、逝去。九十四歳だった。(338-339頁)

「葦の中の声」
さようなら、についての、異国の言葉にたいする著者の深い思いを表現する文章は、私をそれまで閉じこめていた「日本語だけ」の世界から解き放ってくれたといえる。語源とか解釈とか、そんな難しい用語をひとつも使わないで、アン・リンドバーグは、私を、自国の言葉を外から見るというはじめての経験に誘い込んでくれたのだった。やがて英語を、つづいてフランス語やイタリア語を勉強することになったとき、私は何度、アンが書いていた「さようなら」について考えたことか。しかも、ともすると日本から逃げ去ろうとする私に、アンは、あなたの国には「さよなら」がある、と思ってもみなかった勇気のようなものを与えてくれた。

アン・モロー・リンドバーグの「サヨナラ」と出会えた幸せを思います。