TWEET「自足した平安のうちにある」

 幾時からか、人と話さない日が続いている。かといって、まったく人に会わないわけではなく、夜の大規模小売店には毎日のように買い物に出かけている。私にとってマスクとは、誰彼ともなく口は利きません、という意思表示である。

小林秀雄「季」
小林秀雄『人生について』中公文庫
「瞑想という言葉があるが、もう古びてしまって、殆ど誰も使わないようになった。言うまでもなく瞑とは目を閉じる事で、今日のように事実と行動とが、ひどく尊重されるようになれば、目をつぶって、考え込むというような事は、軽視されるのみならず、間違った事と考えられるのが当然であろう。しかし、考え詰めるという必要が無くなったわけではあるまいし、考え詰めれば、考えは必然的に瞑想と呼んでいい形を取らざるを得ない傾向がある事にも変わりはあるまい。事実や行動にかまけていては、独創も発見もないであろう。そういう不思議な人間的条件は変更を許さぬもののように思われる」(179頁)

 自足した瞑想という喜びは突然やってきて、突然去っていく。

「友情と人嫌ひ」
河上徹太郎『詩と真実』
「饒舌に聞き手が必要であるやうに、沈黙にも相手が要る。そして恐らく饒舌よりも相手を選ぶものだ。私と小林秀雄との交友はそんな所から始まった」

「小林と私」
河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版 
「彼とのつき合ひも中学上級以来からだから随分古い。古い点ではお互に最古参だらう。文壇では二人を親友の部類にいれてゐる。いはれて不服はないが、然し考へて見ると、深入りしてつき合った時期は先づない」(61-62頁)
「遊びに来て一言も口をきかないで、それでつき合ひの目的を達して別れた覚えもある。「君子の交り淡々として水の如し」といふのはこのことなのだらうか?」(61-62頁)

 私にはこういった幸せな交りはない。ただ、沈黙していることに充足を覚えるならば、この自足した平安のうちにあればいい、と思っている。この行方は不分明であるが、饒舌の行方はかなり怪しい、とにらんでいる。