「自分の声といい肉声といい」

「山の日に山気にあたる_1/3」
2022//08/11
「霊峰(富士)を前に、茫然自失として立ちつくす。私の不用意な動きが、すべてを崩壊へと導く。私は平安のうちにあるが、心奥のどこかが緊張しているような気がする。それを畏れというのかもしれない」
 私の美の体験である。
「摩訶般若波羅蜜多心経」を諳んじた。間をおかずに何回か唱えると、美の体験と近似した心境になることを、数日前に気づいた。それは、「南無阿弥陀仏」の「六字名号」を唱えた後にも起こることを、はっきり自覚している。

玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書
「それでは最後に、以上の意味を忘れて『般若心経』を音読してください」(194頁)
「自分の声の響きになりきれば、自然に『私』は消えてくれるはずです」(198頁)
「声の響きと一体になっているのは、『私』というより『からだ』、いや、『いのち』、と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています」(199頁)

墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 
「念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで」ある。(12頁)

「自分の声の響き」であり、「称名の声と木魚を撃つ音」である。
 また、小林秀雄は、
「あの人(本居宣長)の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです」(『本居宣長 (下)』新潮文庫 388頁)
といっている。

「言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る」
 畏怖すべきは声にあった。
 いま何かが動きはじめた。言葉を弄すること、徒らに動くことの愚かさを思っている。