井筒俊彦「本居宣長の『物のあはれ』論」
昨日はブログを読んで過ごした。
「“引用” は人の為ならず」ということを実感した。デジタルデータ化すれば、検索も容易である。
井筒俊彦は、深層意識的言語学者である。井筒の文章は緻密であり明晰である。また、国語国文学者とは、自ずから視座が異なり興味深い。
通読を旨とする、そして初読後 間もなくの再読、という読書習慣が身についた。私にとっては、斬新な出来事である。
以下、長い引用である。
井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫
2021/03/23
「およそ概念とか概念的・抽象的思惟とかいうものを極度に嫌った本居宣長は、当然のことながら、中国人のものの考え方にたいしてほとんど本能的とでも言いたいほどの憎悪の情を抱いた。彼の目に映じた中国人は「さかしらをのみ常にいひありく国の人」、人間本然の情をいつわり、それにあえてさからってまで、大げさで仰々しい概念を作り出し、やたらに「こちたく、むつかしげなる事」を振りまわさずにはいられない人たちである。
(中略)
宣長にとって、抽象概念はすべてひとかけらの生命もない死物に過ぎなかった」(34頁)
「中国的思考の特徴をなす ー と宣長は考えた ー 事物に対する抽象的・概念的アプローチに対照的な日本人独特のアプローチとして、宣長は徹底した即物的思考法を説く。世に有名な「物のあはれ」がそれである。物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である、という。明らかにそれは事物の概念的把握に対立して言われている。
概念的一般者を媒介として、「本質」的に物を認識することは、その物をその場で殺してしまう。概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。この生きた事物を、生きるがままに捉えるには、自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じるほかに道はない。そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ」(35 -36頁)
「では一体、「物の心をしる」とは、もっと具体的には、物の何を、どうやって知ることなのだろう。一番大切なことは、さきにも一言したとおり、花なり月なり、あるいはより一般的にあらゆる存在者を、普遍者化しないこと。普遍的、つまり概念的、認識の次元に移さないで、それを真の即物的自体性において捉えること。とすれば、当然、ここで「物」とは、生きた現実に実在する具体的存在者、すなわち個体のことでなければならない。メルロー・ポンティ的に言うなら、今ここにあるこの「前客体化的個体」、すなわち意識の対象として客体化され、認識主体の面前に引き据えられる以前の、原初的実在性における個物。そのような個物の「心」を捉える、つまり、その個物の「独自な、(言語的意味以前の)実在的意味の核心」を一挙に、直感的に把握することで、それはあらねばならない。
しかしこのような個物の、このような実在的核心を、われわれは客観対象的に認知することはできない」(36-37頁)
「宣長の言わんとするところを、いま、「本質」論的に敷衍(ふえん)して表現するとすれば、「物の心をしる」とは、畢竟するに、
(中略)
「あはれと情(こころ)の感(うご)く」こと、すなわち深い情的感動の機能を絶対視する。物を真に個物としてあるがままに、それの「前客体化的」存在様態において捉えるためには、一切の「こちたき造り事」を排除しつつ、その物に直に触れ、そこから自然に生起してくる無邪気で素朴な感動をとおして、その物の個的実在性の中核に直接入っていかなくてはならない、というのだ」(37-38頁)
宣長の「物のあはれ」とは、我知らず、東洋哲学の代表的なパラダイム内の出来事であって、宣長の好悪の如何に関わらず、「本質」論的に説明が可能である、と井筒俊彦は指摘している。
ここにいたって、「物のあはれ」とは実在体験であって、私たちが無反省に使用する言葉ではないことを思い知らされた。
本居宣長は稗田阿礼の「声」を聞き、小林秀雄は本居宣長の「肉声」に耳を傾けた。そして、語った。これらはひと続きの口承である。
そして下記、小林秀雄による「深層意識的言語観(哲学)」待望論であり、またその口惜しさである。
若松英輔『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』慶應義塾大学出版会
「私の感謝」と題する小林(秀雄)への追悼文で遠藤(周作)は、この批評家の営みは畢竟、「言語アラヤ識」の世界を歩くことだったといい、次のように書いた。
言霊の働きはやがて人間の言葉をこえたものを目指す。仏教の唯識論の言葉でいえば言語的な阿頼耶識にぶつかるのだ。私は言語的阿頼耶識をあの「本居宣長」に感じ、今後の小林さんがその信じる認識をどの方向におむけになるか、心待ちに待っていたのである。
『意識と本質の』読者である彼(遠藤周作)はもちろん「言語アラヤ識」の一語が井筒(俊彦)独自の述語であることを知っている。同時代における小林の高次な理解者たり得た人物の一人に井筒がいることを遠藤は暗示している。(160-161頁)
大江健三郎「井筒宇宙の周縁で 『超越のことば』井筒俊彦を読む」
若松英輔(編),安藤礼二(編)『 井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生 増補新版』河出書房新社
「僕はかって故小林秀雄氏の『本居宣長』の古代、冥界についての考察を、レヴィ=ストロース教授の世界になぞらえたことがある。実際的な手段として小林氏が構造論を採用していられたならば、かれの天才的なレトリックをもってしてもなお不確かさの残った記述をとらえやすいものとなしえただろうと思う。いいかえれば、それは小林氏の宣長研究を言語論として徹底させる方向にいったであろうし、そこには本当に新しい展望が開かれもしたはずと、井筒氏の論文を読む眼を宙にあそばせて考えるのである」(039頁)
井筒俊彦は、「芭蕉の本質論」についても書いています。ひと言でいえば、芭蕉の
“目撃
” 体験です。
いま一度、『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』を、読み直すことの必要を感じています。次回は、岩波文庫ではなく、
◇『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会
を、「解題」を参照にしつつ精読することにします。
を、「解題」を参照にしつつ精読することにします。