小林秀雄「鉄斎,光悦,雪舟を書く」

小林秀雄「鉄斎の自在」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
「鉄 斎 II」
「志などから嘗(かつ)て何かが生れた例(ため)しはない」(173頁)
「絵かきとして名声を得た後も、鉄斎は、自分は儒者だ、絵かきではない、と始終言っていたそうだが、そんな言葉では、一体何が言いたかったのやら、解らない。絵かきでないといくら言っても、本当に言いたかった事は絵にしか現れなかった人なのだから、絵の方を見た方がはっきりするのである」(
175-176頁)
「鉄斎は画家を信じなかったが、画家の方で鉄斎を信じた」(178頁)

「鉄 斎 III」
「鉄斎の筆は、絵でも字でも晩年になると非常な自在を得て来るのだが、この自在を得た筆法と、ただのでたらめとの筆とが、迂闊(うかつ)な眼には、まぎれ易いというところが、贋物(にせもの)制作者の狙いであろう。例えば、線だけをとってみても、正確な、力強い、或(あるい)は生き生きとした線というような尋常な言葉では到底間に合わない様な線になって来るので、いつか中川一政氏とその事を話していたら、もうこうなると化けているから、と氏は言っていた。まあ、そんな感じのものになって来るのである。岩とか樹木とか流木とかを現そうと動いている線が、いつの間にか化けて、何物も現さない。特定の物象とは何んの関係もない線となり、絵全体の遠近感とか量感とかを組織する上では不可欠な力学的な線となっているという風だ。これは殆(ほとん)ど本能的な筆の動きで行われている様に思われる。最晩年の紙本(しほん)に描かれた山水(さんすい)などに、無論線だけには限らないが、そういう言わば抽象的なタッチによって、名伏し難い造型感が現れているものが多い」(180-181頁)

「(八十歳の半ば頃を過ぎると)鉄斎の絵は、どんなに濃い色彩のものでも、色感は透明である。この頃を過ぎると、潑墨(はつぼく)は次第に淡くなり、そこへ、大和絵(やまとえ)の顔料(がんりょう)で、群青(ぐんじょう)や緑青(ろくしょう)や朱が大胆に使われて、夢の様に美しい。ああいう夢が実現出来る為には、自然を見てみて、それがいったん忘れられ、胸中に貯えられて了わなければならないであろう」(182頁)

 我知らず、鉄斎は、思想を絵にする他なかった。鉄斎の絵に仮託し、小林秀雄が語るのは、宗(おおもと)の教えである。晩年の無頓着で、無造作な、我が儘の鉄斎を描く小林秀雄の筆に、小賢しさはなく、鷹揚で、無邪気である。鉄斎の天才、小林秀雄の天才を思う。
 学生時代、中川一政『腹の虫』中公文庫 等々、何冊かの文庫で、絵や文字に、文に親しんだことを思い出す。
〈参考図書〉:白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社


小林秀雄「光悦_天才に裏附けられたこの職人の審美上の自得」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
「彼(本阿弥光悦)が年少の頃から修練した相剣(刀剣鑑定などをいう)の技術は、自(おのずか)ら古刀時代に赴く道を彼に教えたに相違ない。彼にとって、日本の美術の故郷とは、即(すなわ)ち日本人が空前絶後の名刀を作り得た時代であった。そして、彼は、それを、砥石(といし)の上で、指の下から現れて来るのを見たのである。天才に裏附けられたこの職人の審美(しんび)上の自得が、桃山期という美術史上の大変革期に際して、諸芸平等と観じもし、そう実行もした彼の生活の扇の要(かなめ)の如(ごと)き役を果した様に思われる」(186頁)

「彼の指は、名刀に訓練された視覚に導かれ、当代の需要に応ずる為に、健康児の動きのごとく的確に鋭敏に、休みなく運動した。(狩野)探幽(たんゆう)の理想も(狩野)永徳の夢想も、彼を驚かすに足りなかったのである」(186-187頁)

「相剣」、また「名刀に訓練された」光悦の眼は、ゆるぎないものだった。「形」をとって鮮やかに映じる眼に、虚実を過つことはなかった。そしてそれは、創造へと向かった。自身の仕事に最も厳しい目を向けるのが「職人気質」というものだろう。
 本編においても小林秀雄の筆はさえわたっている。浮浪の輩である「観念」の内に、夢遊することを一貫して拒み、これを退けている。小林秀雄の信用したものは、確かな「形」のあるものだけだった。
 光悦なり、また宗達なりの人品に接したことのない私に書けるのは、いかほどのものでもない。ただ小林秀雄の織りなす文章の「形」に見入っているだけである。本末が転倒している。かといって、やめられないのも、また事実である。
 文庫本にして、わずか 11頁の作品です。ぜひ手に取ってご覧になってください。
 前項の「鉄斎 I,II,III」でつまずき、ふて寝をし、今回の「光悦と宗達」で転倒し、入浴した。七転八倒しています。これが私の「小林秀雄を読む」ということです。
〈参考図書〉:白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社


小林秀雄「雪舟の明らかさ」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
「(「山水長巻」の)遠景も淡彩も装飾であるが、無論、彼は妥協なぞしているのではない。手を動かし乍ら、岩盤について瞑想(めいそう)する果てに、そういうものが自(おのずか)ら現れてくる。恐らく最も正しい意味での装飾である。茫漠(ぼうばく)たる遠景は、確固とした全景を再感させる。清楚(せいそ)な衣装(いしょう)によって、堂々たる体軀に気附く様に、淡彩は施されている。淡彩は、確かに四季の推移を語っているが、それは、まことに静かな移ろいであり、遂に四季の循環という岩の様に不動な観念に導かれる様である。何処(どこ)も彼所(かしこ)も明晰(めいせき)だ。恐らく作者の精神と事物の間には、曖昧なものが何にもないという事だろう。分析すればするほど限りなく細くなって行く様なもの、考えれば考えるほどどんな風にも思われて来るもの、要するに見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神、私は、そういう精神が語りかけて来るのを感じて感動した。私には、これを描いた画家が、十年後には、「慧可断臂」を描かねばならなかったのが、よく理解出来る様な気がした」(193-194頁)

「今、私の机の上には、「慧可断臂図」の極くつまらぬ写真版がある。私は、それで満足である。(中略)
壁を眺めているうちに、両足が身体にめり込んで了った男、たった今切った自分の腕を、外れた人形の腕でも拾った様な顔で持っている男、これは伝説であろうか。ところが、絵は全く逆のことを言う。益田兼尭(ますだかねたか)よりは人間である、と。
 ここにも曖昧(あいまい)な空気はない。文学や哲学と馴れ合い、或る雰囲気などを出そうとしている様なものはない。達磨は石屋の様に坐って考えている、慧可は石屋の弟子の様に、鑿(のみ)を持って待ってる。あとは岩(これは洞窟(どうくつ)でさえない)があるだけだ。この思想は難しい。この驚くほど素朴な天地開闢(かいびゃく)説の思想は難しい。込み入っているから難しいのではない。私達を訪れるかと思えば、忽(たちま)ち消え去る思想だからである。
 雪舟の思想は、もはや私達から遠いところにあるか。決してそんな事はないと思う。それは将来への予言かも知れないのである。ただ現に生きているという理由で、その人の言葉を、その人の顔を、現代人は信用し過ぎている。信用し過ぎたお蔭(かげ)で、人間的というどんな夢路を辿(たど)っているか」(200-201頁)
(註)「慧可断臂図」  慧可が達磨(だるま)に入門を断られた時、自分の左腕を肘(ひじ)から断ち切り意志の固さを示して入門を許されたという故事に基づく図。(295頁)
〈参考図書〉:白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社

白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社
いま私は、
◇「雪舟〈山水長巻〉春景部分 1486 紙本墨画淡彩 39,8×1653 毛利博物館」
◇「雪舟〈慧可断臂図〉1496 紙本墨画淡彩 183,8×112,8 斎年寺」
を見ている。小片である。
 〈山水長巻〉では、「開鑿(かいさく)された」平らかな「山径」、切り立った岩肌に広がる垂直面、そして渓流にかかった岩橋の平面の美しさが眼をひく。雪舟の画のなかにあって、「平面」が「間(ま)」になっていて、その「間」の置き方の上手さが、雪舟の構図の上手さとなっている。
 〈慧可断臂図〉における、「入門の決意を示すため、左腕を切り落として達磨に差し出す」「神光(後の慧可)」の、額や眉根に深く刻まれた皺は悲壮である。達磨は面壁の姿勢を崩さないが、虚ろな、戸惑いの眼をしている。達磨の纏う衣の線は柔らかく、身体を消失し、宙をたゆたっているかのようである。
 薄衣(うすぎぬ)を一枚を纏っただけの達磨は、淡彩の「平面」として描かれ、達磨自身が「間」になっている。また、背景のおよそ半分が「平面」で構成されており、世界は深い沈黙の内にある。
 雪舟の描く平面は時宜を得て美しい。