小林秀雄「和して同ぜず」

 ここに、四十四巻から成る、三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。
   九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古
   古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし

 小林秀雄は、『本居宣長』を、昭和四十(1965)年、六十三歳の夏から雑誌『新潮』に十一年あまりにわたって連載した。その後一年をかけて推敲し出版した。小林秀雄は、十二年を超える歳月をかけて、本居宣長と対峙した。

そして私は、
小林秀雄『本居宣長 (上,下)』新潮文庫
の初読、また再読に 25日を要した。特に初読は困難な道のりだった。立ち止まり、耳を澄ませて待つことを覚えた。貴重な読書体験だった。
 
川村次郎『いまなぜ白洲正子なのか』東京書籍
 会場の「畠山記念館」に着くと、袴をつけた川瀬(敏郎)がにこやかに出迎えた。
 国語学者の大野晋夫妻もきていた。正子は大野晋という名前は、「青山学院(青山二郎のもとに集まった文士たちの一団)」のころから聞いていた。岩波書店から『広辞苑』が出たのは昭和三十(一九五五)年だが、この辞書で助詞など、基礎語と呼ばれる単語千語をうけもったのが大野だった。基礎語は使われる頻度が高い分、定義をするのがむずかしい。最も厄介な言葉である。「青山学院」に集まる文士はみんな大野に一目も二目も置いていた。
 小林秀雄が昭和五十二(一九七七)年、新潮社から『本居宣長』を出したとき、大野を招いて一席設けた。大野は十七歳年下だが、ただの言語学者ではなく、本居宣長をしっかり読み込み、人間を研究していることを知っていた。どうしても感想を聞いてみたかったのである。
 大野は『本居宣長』を急いで読んだ。そして、宣長を論じようとすれば読み落としてはいけない一冊を読んでいないのではないかと睨み、文化勲章を受章した文壇の大御所に、思った通りのことをいった。小林は、「君の言う通りだ。しかし評論家はそれでいいんだよ」といって、笑ったという。
 実は正子も『本居宣長』にはキラキラしたところがないと思ったので、小林にその通りにいったことがあった。小林は「そこが芸だ」といっただけで、釈然としないものが残っていたが、大野の指摘に得心がいった。この話を聞いたときから、「大野晋」の名は忘れられないものになった。しかし会うのは、はじめてである。七十七歳というのに、少年のような目をしている。 本当は「オオノ・ススム」なのに、後進の学者や編集者には、いつも前向きでせっかちなところから「オオノ・ススメ」と呼ばれていることを教えられ、韋駄天(白洲正子の愛称)の同志に会ったようで、初対面のような気がしなかった。(225-227頁)

「小林秀雄の眼」
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫
「本居宣長」について、私は失礼なことをいったのを思い出す。今度の宣長は今までの作品とは違って、きらきらしたものが一つもない。だから本を伏せてしまうと、何が書いてあったか忘れてしまう。何故(なぜ)でしょうかと尋ねると、小林さんはこう答えた。
「そういう風に読んでくれればいいのだ。それが芸というものだ」
 もうその頃には現代の読者は眼中になく、五十年か百年先の理解者を予想して書いていたのではあるまいか。それにも拘わらず、「本居宣長」は何十万部も売れて、御本人は元より、出版社を唖然(あぜん)とさせた。「では美は信用であるか。さうである」(「真贋」)と小林さんはいう。(57-58頁)

◇ 川村次郎『いまなぜ白洲正子なのか』東京書籍
◇ 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫
 二書中の、白洲正子の発言には温度差が認められる。白洲正子は自らの非を認め、謝罪した格好であるが、その酷評は容赦なく、ただ唖然とするばかりである。しかし、この悪態も、「青山学院」ゆずりかと思えば、納得もいく。
大野は『本居宣長』を急いで読んだ」と聞けば畏れ多く、さらに、「宣長を論じようとすれば読み落としてはいけない一冊を読んでいないのではないかと睨」んだ大野の炯眼には、ただ瞠目するばかりである。
それが芸というものだ」といい、評論家はそれでいいんだよ」と言った、小林秀雄に動揺はみられない。和して同ぜず、小林秀雄はじゅうぶんに大人だった。