大野晋「辞書_この人間臭いものの内側」

大野晋「この人間臭いものの内側 ー 小学館発行 『日本国語大辞典』」
大野晋・編『この素晴らしい国語』福武書店
辞書は、神ではない。それは地上のものであり、人間の作品であり、きわめて人間くさいものである」(162頁)
 辞書が「作品」ならば、それは鑑賞するものであり、鑑賞に耐えうる気品を湛えていなければならない。一つの誤ちが作品をだいなしにすることもある。

私はわずかながら辞書のことに従事してきた者として、小学館の新刊『日本国語大辞典』(1972~1976年)を見ながらそのことを語ってみたいと思う」(162頁)

「こうした大きな辞典なればこそ収めることの出来る多くの項目(多くの方言や日本神話の神名、歴史学上の古文書の用語、古記録や公家の日記類の言語)とか、めずらしい用例(出典)を含むこの辞典は、日本語のことを考える人々がやはり見過ごすことの出来ない辞書である」(168頁)
「『大辞典』が基本的な単語のアクセントを注記したのも、従来見過ごされた領域に対する新しい寄与である。しかし、いわゆる古代日本語の八母音の区別について全然触れずにあるのは編集委員の手落ちではあるまいか」(168頁)

「未だ確定していない」「従来の個々の語源説を、ともかく集め、それを均等に並べることを試みている」。「全然駄目(だめ)な説もみな均(ひと)しく並んでいる」(169頁)
「辞書の中心的生命の一つは、語義の記述である。語義の記述の肝要な点は、それがその語の意味を的確に把握しているか否かの点である」(169頁)
「こういう類(「ゆるい(正確さを欠く)訳語」)が『大辞典』には相当ある。これがこの辞典の最も大きい弱点であろうと思う」。また、「長い年月生きてきた単語について、意味の発展・展開に従って訳語を配列するという努力の見えないものがかなり多い」(170頁)

 国語学者である大野晋の眼は厳しく的を射ている、と私は考えている。
 以下は、掉尾の文である。
「辞書の訳語は人間が書くものである。決して神の声が記録されるものではない。訳者の学問的な蓄積、人間的な資質、出版社の忍耐強い持続力、そうしたものの結集として辞書がある。良い大きい辞書を持つ民族はそれだけの蓄積と資質と持続力とを持つ民族であるとすれば、小学館の「大辞典」は、日本の現在のそれの反映であるという以外にないのではあるまいか」(170頁)
 はじめは上記の文を “ほめ言葉” としてとらえ、その後 “悪く” 解した。が、それは是非の問題ではなく、 大野は事実をもって結論とした、といまは考えている。
 わずか 9頁の随筆である。今回は、『日本国語辞典』に焦点を当てて書いたが、話題は辞書全般にわたり、いずれも「人間臭く」、 おもしろくもあり、身につまされたりもした
『日本国語辞典』を仔細に繙(ひもと)けば、日本の実力が解るはずだが、私にはとてもかなわず、私にとって「辞書」とは、やはり「天声人語」(天に声あり、人をして語らしむ)のごときものである。

◇ 倉島長正『「国語」と「国語辞典」の時代 ー『日国』物語 ー 〈上_下〉 』小学館
を注文した。古書である。
「「国語」と「国語辞典」の時代の掉尾を飾る、日本における国語辞典の金字塔『日本国語大辞典』が完結してから20年後の今、当時の編集長が、その編纂過程、社会的な影響力、『日国』批判に対する反論、大型国語辞典の将来などを検証する」
との内容説明がある。

大野晋『日本語と私』河出文庫
「私は(『岩波古語辞典』の)単語の意味記述に当たって「類義語の弁別」ということを第一に考えた。
(中略)
「行く」と「去(さ)る」と「去(い)ぬ」とはどう違うか。それを明確に弁別するには、従来のように①…②…③…と訳語を並べるだけでは間に合わない。語の特性、類義語との相違を文章で説明する要がある。私は語の最初にその単語の特性を解説する文章をつけるという新工夫を持ち込んだ。最初の試みだから、文章の洗練が欠けてもいただろう。まず(岩波)書店の編集部が異をとなえた。解説が文中の訳語と重複する。類義語とも説明が重なるという。私は何回か自分の考えを編集部の人々に講義した。私が下手だったのだろう。仲々理解が得られなかった。岩波の重役の長田幹雄氏に私は説明した。「二十年も見ていて御覧なさい。どの辞書も私の方式を必ず取り入れますよ」。すると長田氏は言った。「大野さん、私は本屋です。本は二十年先を見た本ではだめなんです。十年先にしてください」。私は感心した。「さすがに大編集者だ」。長田氏は著者というものがいかに無能で、無能をどう誤魔化すかを知っていた。と共に、(岩波)書店の編集者がいろいろな失敗をどう糊塗(こと)するかもよく知っていた」(213-214頁)

 これは、大野、長田両氏の暗黙の了解である。十年もすれば、その化けの皮もはがれ、世間の眼にさらしておくのは見苦しいから、そろそろ新版を出そうか、ということになる。出版文化の、耳を疑いたくなるような惨状である。
 また、当書の 214-215頁には、二十年の歳月を要し、「編集の終り近く」の『岩波古語辞典』の原稿から、「刊行が始まった」小学館の『日本国語大辞典(全20巻)』への、Mさんによる盗用事件についての経緯(いきさつ)が記されている。
 これらの経緯も含めて、辞書、「この人間臭いものの内側」ということなのだろう。