小林秀雄と谷崎潤一郎の『文章読本』

谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫
 当書には、志賀直哉『城の崎にて』からの引用がある。また、「故芥川龍之介氏はこの『城の崎にて』を志賀氏の作品中の最もすぐれたものの一つに数えていました」(27頁)との一文がみられる。
「こゝには温泉へ湯治に来ている人間が、宿の二階から蜂の死骸を見ている気持と、その死骸の様子とが描かれているのですが、それが簡単な言葉で、はっきりと現わされています。
(中略)
この文章の中には、何もむずかしい言葉や云い廻しは使ってない。普通にわれわれが日記を附けたり、手紙を書いたりする時と同じ文句、同じ云い方である。それでいてこの作者は、まことに細かいところまで写し取っている」(27頁)
「一体、簡潔な美しさと云うものは、その反面に含蓄がなければなりません。単に短かい文章を積み重ねるだけでなく、それらのセンテンスの孰れを取っても、それが十倍にも二十倍にも伸び得るほど、中味がぎっしり詰まっていなければなりません」(139頁)

○ 含蓄について
含蓄と云いますのは、前段「品格」の項ににおいて説きました「饒舌を慎しむこと」がそれに当ります。なお云い換えれば、「イ あまりはっきりさせようとせぬこと」及び「ロ 意味のつながりに間隙を置くこと」が、即ち含蓄になるのであります」(218頁)
(中略)
この読本は始めから終りまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります。(219頁)

井伏君の「貸間あり」
小林秀雄『考えるヒント』文春文庫
「作者は、尋常な言葉に内在する力をよく見抜き、その組合せに工夫すれば、何が得られるかをよく知っている。彼は、そういう配慮に十分自信を持っているから、音楽からも絵画からも、何にも盗んで来る必要を認めていない。敢えて言えば、この小説家は、文章の面白味を創り出しているので、アパートの描写などという詰らぬ事を決して目がけてはいない。私は、この種の文学作品を好む」(35-36頁)
「彼の工夫は、抒情詩との馴れ合いを断って、散文の純粋性を得ようとする工夫だったに相違ない」(40頁)

「正宗白鳥の作について」
『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社
「(内村鑑三の)極度に簡潔な筆致は、極度の感情が籠(こ)められて生動し、読む者にはその場の情景が彷彿(ほうふつ)として来るのである」(230頁)
「(内村鑑三『代表的日本人』における)装飾的修辞を拭(ぬぐ)い去ったその明晰(めいせき)な手法は、色彩の惑わしを逃れようとして、線の発明に達した優れた画家のデッサンを、極めて自然に類推させる。これらの人々の歴史上の行跡の本質的な意味と信じたところを、このように簡潔に描いてみせた人はなかった。これからもあるまい」(233頁)
「読者は、曖昧な感傷性など全く交えぬ透明な確固たる同じ内村の悦びに出会うのである」(233頁)
 そして、小林秀雄は、「この人(ストレイチイ)も亦内村(鑑三)の言に倣って、名士達の伝記とは『他なし、彼らの明確なる人格の明確なる紹介なり』」(244頁)と書いている。


 谷崎潤一郎の、また小林秀雄の嗅覚は鋭い。簡明であること、人為を注意深く遠ざけること。無為なるもの、自然(じねん)なること。
 これは “道” である。この道を行けば、いつか視界が開けるときがくるような気がしている。